日本の民謡 曲目解説<新潟県>
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「塩たき節」(新潟)
《なじょな塩たきでも 作(こし)ろうて出せば 枝垂れ小柳 稚児桜》
佐渡へ渡る港として、古くから開けた寺泊の花柳界で唄われた。人気民謡歌
手が、全国にあまり知られてない郷里の唄を紹介することは、大変に好ましい
ことである。
○小杉真喜子KICH-8205(96)
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「新発田甚句」(新潟)
《新発田よいとこ 東も西も 北も南も 黄金色》
越後甚句の一連の盆踊り唄。保存会も結成されている。溝口藩十万石の城下
町・新発田市は、加治川と新発田川が町中を流れる。越後平野東部の農産物集
散地として栄え、鉄鋼産業、製糸、酒造りの町としても知られている。地名に
ついては、アイヌ語で鮭の獲れるところという意味である「シビタ」、潟湖に
接する意の洲端(すばた)、新開発新田の転訛などといった説がある。
○佐藤 春男COCF-9309(91)
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「新保広大寺」(新潟)
《新保広大寺が めっくりこいて負けた 袈裟も衣も みな取られた》
「殿さエー」と唄い出し、終わりに「ヤンレー」と囃し言葉が付く「越後口説
き」で、幕末に各地で流行した。越後の瞽女や田舎回りの旅芸人、飴売り行商
人らが広めた。文化・文政(1804-29)の頃には上方で、安政(1854-59)頃には江
戸で流行したことが各種の唄本から確認できる。いずれも二上り唄となってい
る。こだいじ(京都、広島)、こだいじ踊り(岐阜)、古代神(富山)、こだいず踊
り(島根)などと呼ばれる民謡は、いずれも同系統である。八木節、最上口説き、
秋田飴売り唄、津軽じょんから節なども、越後口説き系統である。町田佳聲
(1888-1981)は、十日町地方の神楽せり唄「こだいず」が変化していくうちに
「広大寺」の文字があてられ、それと中魚沼群十日町の新保にある禅寺・広大
寺和尚の伝説(門前の若後家と浮き名を流したこと)が結びつき、元唄らしく
したものとしている。追分節、ハイヤ節と共に、日本民謡の三大源流。
◎木津しげりCOCF-9309(91)
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「大の阪」(新潟)
《大の坂 七曲がり駒を よく召せ 旦那様
よく召せ駒を 南無西方 よく召せ 旦那様》
新潟県北魚沼郡堀之内町で行われる盆踊り唄。歌詞に「南無西方」が入り、
御詠歌風の節で唄われるところから、「念仏踊り」とも呼ばれる。唄は音頭方
と踊り手が問答式に唄い継ぐもので、哀調を帯び、踊りも優雅である。当地方
が、小千谷や十日町と共に縮布(ちぢみ)の生産地として栄えた元禄(1688-1703)
の頃、京阪と往復する問屋衆が伝えたという。
○本郷 秀彦APCJ-5037(94)
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「寺泊おけさ」(新潟)
《佐渡へ八里の さざ波越えて 鐘が聞こゆる 寺泊
あだし畑の 莢(さや)豆は 一莢はしれば 皆はしる
私ゃお前さんに 付いて走る 酒呑みなんぞは 置いて走る》
寺泊町は、佐渡へ渡る港として古くから賑わいをみせていた。現在も4kmに
およぶ街路村を形成している。寺泊が港町として栄えていた頃、船人相手の酒
席の騒ぎ唄として唄われていた。熊本県牛深市で生まれた「ハイヤ節」が、北
前船で新潟県の各港に移入される。新潟県の山間部に”おけさ”と唄い始める
唄があったが、この歌詞だけが「ハイヤ節」と結び付き「おけさ」が生まれた。
◎月 子COCF-9309(91)
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「十日町小唄」(新潟)
《越後名物 数々あれど 明石縮に 雪の肌 着たら離せぬ 味の良さ》
永井白●(さんずいに眉)作詞、中山晋平(1887-1952)作曲。昭和4(1929)年
に藤本二三吉(1897-1976)と十日町芸妓連によってレコードになった。
◎葭町(藤本)二三吉VDR-5172(87)
◎小その、文 代COCF-9309(91)
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「長岡甚句」(新潟)
《長岡 柏の御紋 七万余石の 城下町》
長岡は天和4(1684)年、牧野忠成が七万石で封ぜられ、以後、城下町として、
信濃川の水運の要所として栄えてきた。毎年、盆になると、町のあちこちで笛
・太鼓・鉦も賑やかに唄い踊られる。今では観光資源の一つとして、人々が町
の目抜き通りを流して歩く。盆踊り唄と、芸妓衆の唄うお座敷唄の二通りある。
新潟県から福島県会津地方にかけて広く分布する甚句の一種で、各地ともあま
り変化はみせていない。「新潟甚句」「新発田甚句」と同系統。
◎小杉真貴子VICG-2064(91)
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「七浦甚句」(新潟)
《沖の敷島 灯りがゆれる 可愛いあの娘の さざえ採り》
真野湾の北に突き出た大佐渡の二見、米郷、稲鯨(いなくじら)、橘、高瀬、
大浦、虎伏の七集落の総称が七浦で、善知鳥(うとう)七浦と呼ばれる七浦海岸
は、それぞれが特色ある美しい海岸である。ここで酒席の騒ぎ唄として唄われ
ていた。もとは「南部節」と呼ばれたが、これは岩手から青森の旧南部領に出
稼ぎに行った人が持ち帰ったためである。曲は盆踊り唄の「なにゃとやら」が
変化したもので「道南盆唄」などと同系統。新潟市の民謡家・岩崎文治が、昭
和32(1957)3年頃にレコードで紹介した。
○早坂 光枝KICH-8203(96)
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「新潟おけさ」(新潟)
《仇し 仇し仇波 寄せては返す 寄せて返して また寄せる》
信濃川河口に開けた港町・新潟は、北前船の寄港地として、西の文化の移入
口として栄えた。ここには、京の祇園と肩を並べる伝統ある花柳界があった。
酒席の騒ぎ唄には「おけさ」が取り上げられ、金屏風の前で華やかに唄い踊ら
れた。「ハイヤ節」と県下の酒盛り唄である「おけさ」が結び付き、新しい
「おけさ節」が生まれたが、花柳界で磨かれるうちに「ハイヤ節」的なところ
が消え、今日の「新潟おけさ」になった。
◎小杉真貴子VICG-2064(91)
◎小その、文 代COCF-9309(91)
◎早坂 光枝KICH-8203(96)
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「新潟小唄」(新潟)
《水の新潟 八千八川 末は万代 橋ゃ長い》
新潟市の花柳界のお座敷唄。昭和4(1929)年、信濃川にかかっていた木造橋
が鉄筋の橋に架け替えられる。前年の8月、新潟毎日新聞主催の「歌舞の夕べ」
で、野口雨情(1882-1945)作詞、中山晋平(1887-1952)作曲の「新潟港おどり」
が発表されたが、あまり人気がでなかった。そこで、対抗馬の新潟新聞社が、
新たに詩人の北原白秋(1885-1942)に詩を依頼。民謡のみならず、三味線音楽
の研究では日本有数の学者である町田佳聲(1888-1981)が曲を付けた。
○小その、文 代COCF-9309(91)
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「新潟甚句」(新潟)
《碇(いかり)おろせば 早や気が勇む 花の新潟に 樽の音》
「新潟盆唄」「樽たたき」とも呼ばれる盆踊り唄。新潟の花柳界では、芸者衆
が大きな樽をたたいて唄っていた。
○頓所 声憲APCJ-5037(94)
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「新津松坂」(新潟)
《秋葉山から 吹き降ろす風は 新津繁盛と 吹き降ろす
吹き降ろす 吹き降ろす 新津繁盛と 吹き降ろす》
秋田の「荷方節」や津軽の「謙良節」の元唄である「越後松坂」とは異なり、
近畿地方を中心に中国地方、中部地方に分布する木遣り唄「松坂踊り」が県下
に移入され、新津や加茂に定着。「新津松坂」や「加茂松坂」となった。天正
・文禄の頃(1573-95)、新津丹波守は、領民たちの心を和らげようとして歌舞
を奨励。伊勢の松坂に優雅な踊りのあることを知って人を遣わし、唄と踊りを
修得させた。これを改良して「新津松坂」と命名、領民たちに踊らせたという
説がある。
◎小坂 春治、小林 健二COCF-9309(91)
◎松本 政治KICH-2015(91)
◎斎藤 京子CF-3458(89)
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「野良三階節」(新潟)
《明けたよ 夜が明けた 寺の鐘打つ 坊主や お前のお陰で 夜が明けた》
柏崎地方の盆踊り唄。新潟県中部の刈羽平野西端の砂丘にある柏崎市は、日
本海の港であり、北陸街道の宿駅でもあった。三階節は、一つの文句を三回繰
り返すところから名があり、野良は戸外のことで、野外で唄う三階節という意
味。文政(1818-29)の頃、江戸、大阪、京都を中心に流行した「ヤッショメ節」
とか「シュゲサ節」と呼ばれる唄が柏崎にも伝えられ、盆踊り唄に利用された。
隠岐に伝わる「しげさ節」は、三階節が隠岐化したものである。曲名は、花柳
界の「お座敷三階節」に対する意味でつけられた。
○小 そ の、文 代COCF-9309(91)
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「はねおけさ」(新潟)
《おけさおけさと 数々あれど 昔ながらの はねおけさ
父様 父様どこ行きゃる ちょいと小鎌を 腰に差し
荷縄にばんどり めんぱに かて飯 ぱちりと詰め込み
親の代から 三代伝わる 桐の木ずんぎり ぶらぶらと提げて
孫子笑うな 私ゃ馬の飼い葉の 草刈りに》
はねは座がはねることで、終わりを意味する。祭りの最終に唄われる唄。南
魚沼郡塩沢町から堀之内あたりで、秋祭りに唄われ、酒席では唄われない「お
けさ節」である。
○木津かおりCOCF-9309(91)
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「三国馬子唄」(新潟)
《わたしゃ三宿 浅貝育ち 米のなる木は まだ知らぬ》
三国街道は、関東と越後を結ぶ街道で、中山道の高崎から分岐する。三国峠
を越えて長岡に至った。三国峠は街道最大の難所で、越えると三国三宿の浅貝、
二居、三俣である。
○水落 忠夫APCJ-5037(94)
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「米山くずし」(新潟)
○山本 謙司TOCF-5012(92)
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「米山甚句」(新潟)
《行こか参らんしょか 米山薬師 ひとつは身のため 主のため》
柏崎の西方、中頚城(くびき)郡と刈羽郡の境にそびえる米山(993m)は、頂上
に泰澄大師創立と伝える薬師堂がある。これが雨乞いに霊験があるといわれる
真義真言宗豊山派の米山薬師である。一説に、江戸時代末、刈羽郡荒浜村出身
の力士・米山は「甚句」を得意としていた。いつしか米山が唄う「甚句」は、
米山甚句と呼ばれるようになったというが、力士の米山は記録にない。唄い出
しから「米山甚句」になったものか。明治から大正にかけ、俗謡として全国で
愛唱された。
◎椿 正昭VICG-2040(90)
◎小杉真貴子VDR-5193(87)
◎湯浅 弘子CF-3458(89)
◎小 重、高橋 睦子COCF-9309(91)
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「両津甚句」(新潟)
《両津欄干橋 真ん中から 折りょうと 船で通うても 止めりゃせぬ》
加茂湖の水が海に注ぐ狭い水路に欄干橋がかかり、この水路を境に夷(えび
す)と湊の二つの村落に分かれていた。明治34(1901)年、両村落が合併して
両津となる。「両津甚句」は「甚句流し」とも呼び、盆になると町の人々は鼓
を打ちながら、路地から路地へと唄い踊って歩いた。当初の「両津甚句」は、
上の句と下の句を一息で唄う難曲だったため、佐渡の民謡家・松元丈一が上の
句を二息で唄うようにした。
◎橋本 芳雄CF-3458(89)
◎佐藤ミヤ子COCF-9309(91)
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