日本の民謡 曲目解説 {四国}
----------------------------------------------------------------------
<徳島県>
「阿波踊り」(徳島)
《阿波の殿さま 蜂須賀公が 今に残せし 阿波踊り》
毎年8月15日から四日間、徳島市のあちらこちらで踊り歩かれる。天正1
4(1568)年、蜂巣賀家政が徳島城を築いたとき、落成祝いの酒宴の席で踊り始
めたのが始まりとの説がある。踊りの手や三味線は、奄美大島の「八月踊り」
とそっくりで、「ハイヤ節」が媒介となったもよう。「阿波踊り」の唄は「よ
しこの節」で、大正の中頃、一時「阿波踊り」がすたれかけた時、唄だけが
「よしこの節」に変えられてしまった。「よしこの節」は、江戸時代の後期、
明和(1764-72)から寛政(1789-1801)にかけて、茨城県潮来(いたこ)地方からは
やり出した「潮来節」が変化した酒盛り唄で、東海から関西にかけて流行した。
これが名古屋の「神戸(ごうど)節」、江戸の「都々逸」の母体となる。
○中村みよきCOCJ-30339(99)
「阿波風景」(徳島)
《阿波の藍ほど みどりの潮に 恋が渦巻きゃ 櫓櫂(ろかい)は立たぬ
やんら千鳥が 身を濡らす》
昭和初年、踊りの師匠・花柳寿賀乃が、関西方面から徳島の検番に持ち込ん
だメロディーに、郷土史家・林鼓浪が作詞。お鯉(多田小餘綾=こゆるぎ)が昭
和5(1930)年にレコードに吹き込んでいる。
◎お 鯉CF-3661(89)
「阿波麦打ち唄」(徳島)
《阿波の徳島 南風(みなみ)を受けて 花も情も 燃えて咲く》
農家の庭先に積んだ稲の穂を、五〜十人ぐらいが互いに向き合い、唐竿やく
るり棒で叩きながら唄う。吉野川流域は古来から藍の産地で、この唄を唄いな
がら藍葉を唐竿で叩いていた。中国地方に広く分布する「麦うち唄」が徳島に
入り「藍うち唄」となったものだが、藍が科学染料に押されてだめになると、
もとの「麦うち唄」に戻った。現在ではそうした作業もなくなり、花柳界のお
座敷唄となっている。
○浜田 喜晴APCJ-5044(94)
「祖谷(いや)の粉ひき唄」(徳島)
《祖谷のかずら橋 雲の巣(ゆ)のごとく 風も吹かんのに ゆらゆらと
吹かんのに 吹かんのに風も 風もふかんのに ゆらゆらと》
西祖谷山辺に伝わる石臼での「粉ひき唄」。祖谷は、四国の秘境といわれる
三好郡祖谷山村一帯を指す。もとは素朴なものだったが、江戸末期に、田ノ内
集落の松爺と呼ばれた人が今日の返しを付け、節回しも哀調あるものとした。
○比気由美子K30X-221(87)
「盆の流し唄」(徳島)
《秋の千草は 夜露にぬれる 踊りゃ浴衣に 露が浮く》
お盆になると、徳島市富田町の芸妓たちが深編み笠をかぶり、鉦、三味線で
唄いつつ流し歩いた。林鼓浪と今藤長三郎は、徳島のお盆にふさわしい唄を作
詞・作曲。昭和初期には流行したが、現在では唄う人もすくなくなっている。
○原田 直之30CF-2172(88)
<香川県>
「一合蒔いた(讃岐盆唄)」(香川)
《一合蒔いた 籾の種 その枡 有り高は 一石 一斗 一升 一合と一勺》
全県下で唄われていた豊年予祝行事の豊年踊り。讃岐米はすし米として、関
西方面に多く出荷されていた。歌詞は一から十までの数え唄形式になっている。
昭和10(1935)年、高松市商工会議所の委嘱を受けて、河西新太郎が歌詞を新
作。「高松まつり」のテーマソングになっている。
◎鹿島久美子VDR-25153(88)
「金毘羅(こんぴら)街道馬子唄」(香川)
《いざや讃州 金毘羅へ 行くも弥生の 旅の空
それ坂本を 見渡せば 姿もそろおた すげの笠
笠の締め紐が 殿ならよかろよ 染みよが だるめよが 我がままだよ》
香川県中西部の仲多度郡琴平町にある金刀比羅宮(ことひらぐう)参詣の往来
に唄われた。金刀比羅宮は、琴平山(521m)の中腹にあり、象頭山(ぞうずさん)
金毘羅大権現と称する。明治元(1868)年、事比羅神社、同22(1889)年、金刀
比羅宮に改称。琴平駅前から社殿まで785段の急な石段が続く。琴平街道は、
金刀比羅宮に通ずる道の総称で、主なものは多度津、丸亀、高松、伊予の川之
江、阿波池田からの街道があり、「讃岐の道は金毘羅に通ずる」といわれた。
馬の背に木枠を乗せ、そこに金毘羅参りの客を3,4人乗せて運んだ馬子の唄。
客に聴かせるための浄瑠璃まがいの唄で、他県の馬子唄とは趣きが異なる。
◎田淵 政一KICH-2023(91)
「金毘羅(こんぴら)舟々」(香川)
《金毘羅舟々 追い手に帆掛けて しゅらしゅしゅしゅ
回れば四国 讃州那珂の郷 象頭山金毘羅 大権現》
幕末から明治初年にかけて、全国で大流行した。金刀比羅宮(ことひらぐう)
がある琴平町を中心に唄われた拳遊びのお座敷唄。金刀比羅宮は、古くから海
運従事者から信仰を集め”金毘羅さん”と呼ばれて親しまれた。金毘羅参りの
人々によって、道中唄化されたもの。
○三浦布美子CRCM-40046(96)
<愛媛県>
「伊予節」(愛媛)
《伊予の松山 名物名所 三津の朝市 道後の湯
音に名高き 五色そうめん 十六日の 初桜
吉田さし桃 小杜若 高井の里の 手入れ木や
紫井戸や 片目鮒 薄墨桜や 緋の蕪 ちょいと 伊予絣》
松山市方面に古くから唄われているお座敷唄。江戸の老妓「おいよ」が唄い
始めた唄ともいい、あるいは文化年間(1804-17)に、備前・池田候の趣味で作
り出した「伊予染め」の流行と共に発生した唄ともいうが詳細は不明。関西で
古く唄われていたらしく、明治以後も東京、大阪で周期的に流行をみせた。都
会で唄われていただけに、垢抜けしていて端唄的になっているが、農漁村にも
普及して各地に替え唄を生んでいる。
○久保名津絵COCF-9312(91)
「伊予万歳」(愛媛)
《郷土芸術 伊予万歳よ さて名も高き 松山の 勝山城に そびゆるは
昔偲ばる 天守閣》
今からおよそ350年前、松山藩初代藩主・久松定行が上方から万歳太夫を
招き、新年を祝って万歳を演じさせたのがその由来という。文化年間(1804-
1817)には「松山名所づくし」の出し物が村の祭礼などで演じられ、天保(1830
-43)に入ってから人形浄瑠璃や芝居の影響で万歳が舞踊化され、現在の形式に
なった。
○黒田 幸子COCF-12241(95)
○小杉真貴子VICG-2067(91)
○高橋キヨ子CRCM-40042(95)
「宇和島さんさ」(愛媛)
《竹に雀の 仙台さまは 今じゃこなたと もろともによ》
中国から四国地方にかけて広く分布する「さんさ踊り」と呼ばれる盆踊り唄
が宇和島化。仙台の伊達家が宇和島へ移封され、仙台の「八つ鹿踊り」が伝わ
っているところから、この唄も仙台の「さんさ時雨」と同系と思われているが、
全く異質のもの。
○佐藤 桃仙COCF-9312(91)
「新崖節」(愛媛)
《唄いますぞえ 踊っておくれ 年に一度の 盆踊り》
周桑(しゅうそう)郡小松、丹原、壬生(みぶ)川一帯は、松山藩城下町の郊外
で、未開発地域であった。ここに入植した人々は、険しい山を切り開き、荒れ
地を開墾して農地にしていった。苦しい労働を慰めてくれるのが年に一度の盆
踊りであった。
○横川 正美APCJ-5044(94)
「三坂馬子唄」(愛媛)
《三坂越えすりゃ 雪降りかかる 戻りゃ妻子が 泣きかかる》
愛媛県中部、久万高原の久万盆地にある上浮穴(かみうけな)郡久万町は、土
佐街道に沿う旧宿場町であり、木材の町としても知られている。江戸時代から、
木材は馬車に積まれて松山に運ばれた。この道中に三坂峠があり、道中の行き
帰りに唄われた。
○横川 正美APCJ-5044(94)
<高知県>
「高知町づくし」(高知)
《高知の松ヶ鼻 番所を西へ行く 濃人町 菜園場 新堀 魚の棚 紺屋町
種崎町 打ち越して 京町行くと早 会所が建っている
程なく使者屋を 打ち越して 堺町 本町八丁 通ります
そこらで枡形 本丁突き抜け 観音堂》
近世の遊芸人が、農家の庭先に莚を引き、三味線の弾き語りで聞かせた。唄
の内容は、江戸時代中期に流行したづくしもの。旋律や曲想は「大津絵」。
○高田 新司APCJ-5044(94)
「しばてん音頭」(高知)
《これがね たまるかね 昨夜(ゆんべ)の夢に 好きなあの娘の手を引いて
お主ゃなんなら 俺しばてんよ おんちゃん相撲とろ 取ろうちゃ》
福岡、熊本と並んで、高知には河童伝説が多い。高知では河童を「しばてん」
と呼ぶ。河童は妖怪の一種で、いたずら好きで稚気もあり、水を守護して農業
用水の恵みを与えるともいわれる。現在でも河童祭りをする地方がある。この
しばてんを題材にした武政英策の新民謡。
○赤坂 小梅CF-3661(89)
「新土佐節」(高知)
《きりぎりすは 羽で鳴くかよ 蝉ゃ腹で鳴く わたしゃあなたの 胸で泣く》
高知市の花柳界で唄われる。和歌山のある商人が、高地の芸妓・友吉に習っ
た「よさこい節」に「江州節」を加味して唄ったのが評判になった。それを土
台にしてこの曲が生まれたとの説がある。歌詞を見ると、新潟県の「三階節」
の影響が伺われる。ざれ唄として、卑猥な替え唄が多い。
○神谷美和子APCJ-5044(94)
「安田踊り」(高知)
《安田星ケ城は 夜風のままに お才可愛いの 恋物語》
盆踊り唄。高知県東部、安芸郡安田町(やすだちょう)は、安田川下流西岸に
位置し、土佐湾に臨む農林業の町である。中心の安田は、上流の馬路(うまじ)
村の入口として発展した市場町。
○高田 新司APCJ-5044(94)
「よさこい鳴子踊り」(高知)
《高知の城下へ 来てみいや 爺様(じんば)も 婆様(ばんば)も 良う踊る
鳴子両手に 良う踊る 良う踊る
土佐の高知の 播磨屋橋で 坊さん かんざし買いよった》
毎年8月10日、高知市の主催で「よさこい鳴子踊り」が催される。踊り手
は、各々が小さな鳴子を持って踊り歩く。夏になると、高知を訪れる観光客が
減少するので、徳島の阿波踊りを模して観光客の誘致を図った。昭和29
(1954)年8月、行進踊りを演じて成功してから、年中行事となる。武政英策の
作曲の新民謡。
○由岐ひろみCF-3661(89)
「よさこい節(土佐節)」(高知)
《土佐の高知の 播磨屋橋で 坊さん かんざし 買うを見た》
慶長年間、高知城築城のときの「木遣り唄」が変化したものといわれている。
近畿や北陸に、この種の唄が「祭礼唄」や「御輿かつぎ唄」として用いられて
いるから、そうしたものが高知へ移入されたようである。「よさこい節」の後
につける「土佐なまり」は、土佐の方言で綴った「本調子甚句」で「名古屋名
物」や「おてもやん」と同種のもの。安政2(1855)年、高知の五台山竹林寺の
若僧・純信は、鋳掛屋の娘・お馬に懸想した。寺の品物を持ち出しては金に替
え、娘に物を買い与えていた。ある日、純信が播磨屋橋近くの小間物屋でかん
ざしを買っているところを見られ、二人の仲が世間に知れ渡ると、二人は追放
の身となった。この話が歌詞になっている。
○安藤由美子CRCM-40047(96)
----------------------------------------------------------------------
----------------------------------------------------------------------
Copyright (C) 2000 暁洲舎 All rights reserved.
-->