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日本の民謡 曲目解説 {中国}

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<鳥取県>

  「因幡大黒舞い」(鳥取)
    《大黒舞いを 見んさいな さてめでたいな 大黒舞い》
  正月になると、旧岩美群倉田村円通寺(鳥取市円通寺)の人々が、大黒天の装
束に打ち出の小槌を持ち、三味線と胡弓の鳴り物入りで唄い踊り、門付けをし
て歩いた。唄は、めでたづくしになっている。
            ○岩井きよ子KICH-2017(91)

  「貝殻節」(鳥取)
    《何の因果で 貝殻漕ぎ 習うた 色は黒うなる 身は痩せる》
  鳥取県東部の気高郡の海岸一帯は、帆立貝の漁場で、時に大発生する。帆立
貝を採るには、海底にジョレンを沈め、舟で曵きながら貝をかき集めた。この
時の艪漕ぎ唄。貝が採れなくなり、次第に忘れられたが、昭和の初め、新民謡
運動が盛んになると、鳥取師範の教師・三上留吉が三味線唄に編曲。鳥取市役
所の松本穣葉子が浜村温泉の宣伝歌詞を補い、「浜村温泉小唄」の名で芸妓連
中に覚えさせて酒席の騒ぎ唄とした。昭和27(1952)年、初代鈴木正夫が唄っ
て評判になる。後、賀露の民謡家・浜沢長三郎は、老漁師たちが唄う仕事唄と
しての貝がら節を覚え、櫓漕ぎ唄としての「正調貝がら節」を発表した。
            ◎浜沢長三郎COCF-9312(91)

  「皆生小唄」(鳥取)
    《海に湯が湧く 米子の皆生 波の音さえ 寝てて聞く》
  野口雨情(1882-1945)作詞、竹香博美作曲の新民謡。皆生温泉は、三朝、玉
造とともに、山陰の三大温泉のひとつ。明治33(1900)年、漁師が海中に噴出
する泡を発見したことにより、海浜温泉地として発展した。その後、砂丘が海
に進み、源泉が陸になっている。
            ◎鹿島久美子VDR-25204(89)

  「きなんせ節」(鳥取)
    《町に温泉(いでゆ)が しゃんしゃん湧いて ここは鳥取 いで湯鳥取 君を
待つ》
  松本穣葉子作詞、小幡義之作曲の新民謡。
            ○神谷美和子APCJ-5043(94)

  「新三朝音頭」(鳥取)
    《三朝高原 三徳のお山 伯耆大山 あのあたり》
  志賀大介作詞、島豊作曲の新民謡。
            ○市      丸VDR-25204(89)

  「津和野音頭」(鳥取)
    《渡る大橋 春雨晴れて 萌る柳の 緑は煙り
        仰ぐ石垣 三本松の 城におぼろの 月が出る》
  釦川兼光作詞、佐藤春夫校閲、加藤三雄作曲の新民謡。
            ◎鹿島久美子VDR-25204(89)

  「松江音頭」(鳥取)
    《大社参りと 出雲の旅にゃ 往きも帰りも 松江にお寄り
        今度来る時ゃ 嫁を松江の 嫁ケ島》
  岩瀬ひろし作詞、水時富二雄作曲の新民謡。
            ○松江    徹VDR-25204(89)

  「三朝小唄」(鳥取)
    《泣いて別れりゃ 空まで曇る 曇りゃ三朝が 雨となる》
  野口雨情(1882-1945)作詞、中山晋平(1887-1952)作曲の新民謡。大正14
(1925)年、鳥取県下を旅行していた野口雨情と中山晋平は、三朝温泉の岩崎旅
館に投宿した。宿の主がこの二人を知っていたから、宿は大騒ぎ。急遽、町の
名士たちが集まって歓迎の宴が催された。二人は興の趣くままに即興の詩と曲
を披露したが、それがこの唄であるという。
            ○葭町二三吉VDR-5172(87)

  「元唄・貝殻節」(鳥取)
    《久松山から 沖合い見れば あれが賀露かや 鳥が島》
            ○吾妻栄二郎CRCM-40006(90)

<島根県>

  「海士(あま)町音頭」(島根)
    《唄いましょう 唄いましょ
        波の太鼓で 海士町音頭 友のかもめも 港の船も 調子合わせて 踊り
ましょ》
            ○古賀  速水KICH-120(97)

  「出雲音頭」(島根)
    《ちょいとやりましょうか ちょいとやるので 私がやろか》
  囃し言葉をとって「ヤーハトナ」と呼ばれる口説形式の盆踊り唄。米子市大
崎出身の民謡歌手・黒田幸子(1930-1997)が、母親から故郷の「盆踊り唄」を
習い、これに手を加えて今日の節回しにまとめあげた。昭和33(1958)年頃、
レコードに吹き込んだ際「出雲音頭」と命名。
  声の野太さ、粘りのある歌唱、豊かな声量、味わい、雰囲気、そのいずれを
取っても黒田の右に出る者はいない。二代目は黒田の長女が継承している。
            ◎黒田  幸子COCF-9312(91)

  「石見舟唄」(島根)
    《どんどんどんと 浪高島で 追手呼ぶ声 懐かしや》
  酒席の騒ぎ唄。岡山県の「下津井節」、広島県の「櫓音頭」と同系統で、ト
コハイ系と呼ばれる。北前船の船頭によって持ち込まれたものか。益田市は、
江戸時代には津和野藩の外港として栄え、京都、大阪や下関方面の交易に従事
する船の出入りで、おおいに賑わった。
  松江の伴奏は笛が老成参州、三味線は高橋祐次郎、高橋巌。
            ○松江    徹VDR-25204(89)

  「隠岐祝い音頭」(島根)
    《今日は 可愛い 我が子の門出 酒を注ぐ手も 震えがち》
  隠岐島で元服祝いのとき、よく唄われた。「隠岐伊勢音頭」ともいうべき唄。
昭和34(1959)年、近藤武が「隠岐祝い音頭」と改名して発表。囃し言葉の
「伊勢なんでもせ」を「隠岐なんでもせ」と変えて歌詞も新たに作った。
  桜田誠一(1935-)編曲のオーケストラ伴奏で、遠藤お直が気分よく唄う。桜
田は青森県西津軽郡尾上町出身。編曲に東北民謡の香りが感じられ、聴いて心
地よい編曲。オーケストラの伴奏で民謡を唄う歌手は、まず声が澄んでいて、
美しいことが要件。
            ○二代目遠藤お直KICH-2017(91)

  「隠岐追分」(島根)
    《沖じゃ寒かろ 着て行かしゃんせ わしの部屋着の この小袖》
  全国に追分を生み出した長野県の「馬方三下り」が海路運ばれ、隠岐に持ち
込まれたものが母体となっている。
            ○福浦くに子KICH-2017(91)

  「隠岐おじゃれ節」(島根)
            ○吉井  良夫KICH-120(97)

  「隠岐おわら節」(島根)
    《今年ゃ豊年 穂に穂が咲いて 道の小草も 米がなる》
  隠岐島で広く唄われる酒席の騒ぎ唄。七七七五調の終わり五文字の前に「お
わら」が挿入されるところから名がある。鹿児島、富山、青森に同名の唄があ
るため「隠岐」を冠する。北海道の桧山郡江差町や津軽領で「丹波節」の名で
唄われている「おわら節」と同系統か、あるいは富山県の「越中おわら」の古
い形のものが隠岐に伝えられたか、詳細は不明。
            ○吉井  良夫KICH-120(97)

  「隠岐相撲甚句」(島根)
    《相撲は 神代に始まりまして 今じゃ 日本の国技になりて》
  石見地方には、古くから相撲取り唄があって、これが隠岐に伝わったものと
いわれている。
            ○古賀  速水KICH-120(97)

  「隠岐相撲取り節」(島根)
    《派手な商売 相撲取りは 髪は大銀杏の 折り髷で 着物はどてらの 碁盤
縞》
  石見地方には、古くから相撲取り唄があって、これが隠岐に伝わったものと
いわれている。
            ○石橋レイ子KICH-120(97)

  「隠岐大漁ばやし」(島根)
            ○沙魚川幸弘KICH-120(97)

  「隠岐舟方節」(島根)
    《海を揺さぶる 無情の風に 沖のかもめも 鳴くばかり》
            ○村上  金春KICH-120(97)

  「おわら米とぎ唄」(島根)
    《桜三月 あやめは五月 咲いて年する 梅の花》
            ○福浦くに子VDR-25204(89)

  「きんにゃもにゃ」(島根)
    《千代が機織りゃ あじだけ きだけ 殿に添いとの 招きだけ》
  熊本県の花柳界の騒ぎ唄「きんにょむにょ」が隠岐島の西郷に移入されたも
の。キセルを手に、洋服をうしろまえに着て、異人を表す所作で踊られる。明
治から昭和初期まで盛んだったが、戦争が激しくなるに随い、唄われなくなっ
た。昭和42(1967)年、NHKふるさとの歌まつりで放映されて再び注目され
る。
            ○銭谷さだ子COCF-9312(91)
         ○福浦くに子VDR-25204(89)

  「さんこ節(銭太鼓)」(島根)
    《さんこさんこと 名は高けれど さんこさほどの 器量じゃない》
            ○米倉  慶子APCJ-5043(94)

  「しげさ節」(島根)
    《忘れしゃんすな 西郷の港 港の明かりが 主さん恋しと 泣いている》
  曲名は「出家さん」の歌詞による。「しげさ節」は、文政11(1828)年ごろ、
江戸、京都、大阪あたりで流行した「やっしょめ節」が新潟県下に定着。盆踊
り唄の「三階節」となり、それが船頭たちによって隠岐に伝えられた。新潟県
では同じ文句を三度繰り返すところから「三階節」と言われる。新潟県下のも
のとほとんど同じだったが、大正になって、西郷の朝日新聞社に勤める吉田竜
男が中心となり、隠岐の観光用にと節回しを改良。以後広く唄われるようにな
った。リズム、旋律ともに中国地方の民謡では屈指の曲。
            ◎福浦くに子VICG-2067(91)COCF-9312(91)KICX-8212(93)

  「浄土ケ浦小唄」(島根)
            ○高梨  安子KICH-120(97)

  「新しげさ節」(島根)
    《後鳥羽御陵の 松の風 池のかわずも 忍び泣く
        おぼろ月夜に ふいごを吹いて 京都恋しや 五番梶 隠岐は歴史に 古
い島》
  杉浦千春、小沢忠男作詞、近藤武作曲の新民謡。
            ◎鹿島久美子VDR-25204(89)

  「関の五本松」(島根)
    《関の五本松 一本切りゃ四本 あとは切られぬ 夫婦松》
  島根半島の突端・美保ケ関に、樹齢三百年という五本の松があり、船乗りた
ちの目印になっていた。今から百数十年前、松江藩主が通行の邪魔になるとし
て、そのうちの一本を切らせてしまった。この事件を悲しんだ人たちが”関の
五本松一本切りゃ四本”の歌詞を作ったという。曲は「ショコバのお井戸」と
か「りきや節」と呼ばれる、土手踏みの時に唄っていた「地固め唄」がお座敷
唄化したもの。「地固め唄」は、大阪から香川にかけて広く分布する。
            ◎黒田  幸子COCJ-30339(99)

  「銭太鼓(さんこ節)」(島根)
    《門に立てたる あの松飾り 上から小判が 降りかかる》
            ○松江   徹VDR-25204(89)

  「どっさり節」(島根)
    《忍び出ようとすりゃ烏奴がつける まだ夜も明けぬに がおがおと 憎や
八幡の森烏》
  隠岐の代表的民謡。三味線や太鼓に合わせて、賑やかに唄われる酒盛り唄。
ある時、新潟の船が知夫里(ちぶり)島に嵐を避けて避難した。島の娘は、新潟
の漁夫から追分を習ったが、習い終わる前に船出したため、自己流で唄い出し
たといわれている。「どっさり」は、隠岐の方言で、どっさりこっさり=どう
やらこうやら唄えたの意。曲は追分でなく、新保広大寺系で、中国地方から隠
岐に移入されたものと思われる。隠岐配流中の後醍醐天皇が、島脱出を企てる
苦労を唄う歌詞がある。難曲だが、哀調を帯びた情緒ある唄。
            ○福浦くに子VDR-25204(89)

  「白島(はくしま)音頭」(島根)
    《粋な白島 いなせな姿 いつも絵になる 唄になる》
  島根県隠岐郡西郷町に属している。隠岐諸島で一番大きな島である島後(と
うご)の北に、松島、沖ノ島、白島などの島が散在する。白島は、全島が白色
の石英粗面岩からできている。
            ○高梨  安子KICH-120(97)

  「浜田節」(島根)
    《浜田港から 向こうを見れば 大豆畑が 百万両》
  大正5(1916)年ごろ、浜田町あげての護岸築港運動が興った。その一環とし
て築港促進歌の募集が行われ、錦町の長唄三味線の師匠・谷キチが、「ハイヤ
節」をもとにして曲を作った。当初は「築港節」「漁港節」と呼ばれていた。
            ○松江   徹VDR-25204(89)

  「安来節」(島根)
    《安来千軒 名の出たところ 社日桜に 十勝山》
  船人相手の女たちが、酒席の騒ぎ唄として唄っていた「さんこ節」や、その
字余りの「出雲節」からできた唄。安来の鍼灸医・大塚順仙が、天保から嘉永
(1830-53)にかけての頃に原型を作り、今市屋伝来が伴奏を整えたという。明
治中期、安来の料理屋の主人・渡辺佐兵衛と、娘のお糸が改良。三味線の手は
富田徳之助が編み出し、大正5(1916)年にレコードに吹き込む。この頃、松江
にいた横山大観がこの唄に惚れ込み、渡辺親子を上京させた。ここから浅草に
「安来王国」が築かれることになった。
            ◎三代目出雲愛之助KICH-2017(91)VICG-2067(91)
            ◎黒田  幸子COCJ-30339(99)

<岡山県>

  「カッカラカ」(岡山)
    《昔むかしのその昔 昔話の数ある中で
        今に伝わる武勇の誉れ おろち退治の物語
        なるかならぬか知らねども はずむ太鼓に誘われて
        あらあら読み上げ奉る あらあら読み上げ 踊り子よしゃんとせ》
            ○吾妻栄二郎CRCM-40006(90)

  「古調下津井節」(岡山)
            ○西田佳づ美ZV-29(87)

  「下津井節」(岡山)
    《下津井港は 入りようて 出ようて 真艫(まとも) 巻きようで 間切りよ
うて》
  船人相手の女たちの酒席の騒ぎ唄。下津井は、幕政時代、瀬戸内海の交通の
要所として栄えた。この唄は、瀬戸内海の島々や、山陽、山陰の港町、さらに
は山形県の最上川あたりでも唄われたことがあり、北前船によって各地へ持ち
回られたようである。明治の終わりになって、鉄道の開通や帆船が機械船に代
わると、港もさびれ、唄も唄われなくなった。昭和2(1927)年、毎日新聞社が
観光地百景の人気投票をして、この地の鷲羽山が入選すると、「下津井節」に
目を付けた町役場の高木恭夫、奥田吉次郎などが、今日の形にまとめあげた。
            ○黒田  幸若COCJ-30339(99)

  「高瀬舟唄」(岡山)
    《わしら備前の 岡山生まれよ 米の成る木は まだ知らぬ それもそうじゃ
ろ 川育ち》
            ○吾妻栄二郎CRCM-40006(90)

  「忠義ざくら」(岡山)
    《桜ほろ散る 院の庄 遠きを見れば 偲ぶれば
        幹を削りて 高徳(たかのり)が 書いた至誠の 詩(うた)形見》
  南条歌美作詞、細川潤一作曲。昭和16(1941)年、三門順子の唄で発売され
た愛国舞踊歌謡。
            ○斎藤  京子KICH-2017(91)

<広島県>

  「敦盛さん」(広島)
    《二条行殿(あんでん) 大納言 資賢(すけかた)公の 姫君は
        いつぞや三井寺 御室の御所 月の宴の ありしその時に》
  広島県東北端の庄原市に伝わる。かつてこの地方に門付けにやってきた旅芸
人たちが唄っていた。平家一門の敦盛が、庄原地方に隠れ住んだという歌詞が
特に人気を呼ぶ。そのため、門付け芸人の唄を全て「敦盛さん」と呼ぶように
なった。曲は、中国地方に広く分布する口説き形式の盆踊り唄と同系統。今日、
唄われている歌詞は、紅陽山人が昭和に入って改めたもの。
            ○小橋よし江APCJ-5043(94)

  「音戸の舟唄」(広島)
    《船頭可愛や 音戸の瀬戸で 一丈五尺の 櫓がしなる》
  一丈五尺の櫓がしなると唄われた音戸の瀬戸は、広島県呉市と倉橋島の間に
ある全長650mの水路で、難所として有名である。この瀬戸は、平清盛によ
って切り開かれたという伝説が残っている。瀬戸内海の舟唄は、音戸に限らず
全てこの唄で、中国地方の「船頭唄」もこの系統である。舟唄としてだけでな
く、種々の農作業にも唄われている。
            ○藤堂  輝明COCJ-30339(99)
            ○高山  訓昌COCF-9312(91)

  「西条酒造り唄」(広島)
    《酒の神様 松尾の神は 造りまします 五万石》
  広島県西条町は、気候、風土、水質が酒造りに最適であり、全国的に知られ
た銘酒が数多くある。作業工程ごとに唄があって、熟練の杜氏は唄で時間を計
った。
            ○梅津    栄VICG-2040(90)

  「鞆の大漁節」(広島)
    《備後鞆の津は その名も高い 踊る銀鱗 網戻し》
  鯛漁は、旧暦の3月上旬から行われる。鯛漁に従事する船団が、瀬戸内海各
地にいくつかあった。大漁になると、親方から酒が出る。船中では祝宴が催さ
れ、この時に唄われた。瀬戸内海の鯛網に従事する地域で共通の唄。鯛は乱獲
がたたって姿を消し、唄も忘れられたが、福山市の鞆で、鯛網と唄を観光用に
残した。発祥地は不明。
          ○林竹  嘉則COCF-9312(91)

  「袴踊り」(広島)
    《安芸の宮島 まわれば七里 浦は七浦 七えびす》
  広島の花柳界で、芸妓が両手にお銚子の袴を持ち、馬のひずめがわりにパカ
パカ鳴らして唄い踊る。赤坂小梅が、九州の博多や小倉の花柳界で唄っていた
同種の唄で復元し、広島の姐さん方に教えた。曲は長野県の追分宿で生まれた
「馬方三下り(追分節)」が、広島方面に移入されたもの。宮島のものは、小梅
の節回しとは少し異なり「松前節」や「江差追分」の節回しが混じる。近年で
は、杓子を手に持って踊っている。
            ○高塚 利子APCJ-5043(94)

  「広島木遣り音頭」(広島)
    《めでためでたが 三つ重なりて 庭にゃ鶴亀 五葉の松》
  藤本秀夫(1923-)が、古くから伝わる木遣り唄を参考にして曲を作った。藤
本は三味線の名手で、町田佳聲(1888-1981)の三味線音楽研究のレコードにも、
多くの録音を残している。昭和40(1965)年、●(王偏に秀)丈に改名。
  大塚文雄(1940-)が、作曲者の藤本●丈とその門下、秀三、直秀の三味線で、
笛、太鼓、唄ばやしも賑やかに唄っている。大塚は山形県河北町から上京、働
きながら民謡歌手を目指す。昭和34(1959)年、初代鈴木正夫主宰の民謡会に
入門。昭和36(1961)年、日本民謡協会全国大会で「新相馬節」を唄って優勝
した。
          ◎大塚  文雄KICX-81007/8(98)

  「広島木挽き唄」(広島)
    《花の盛りを 山小屋に居れば いつが花やら つぼみやら》
  広島県中央以北の比婆、双三(ふたみ)、世羅、山県(やまがた)の各郡は、中
国山地の中にある。農業より林業従事者が多く、木挽きは生活の主な手段であ
った。木挽き唄は、全国いたるところにあり、曲調は同じようなものが多い。
            ○成世 昌平CRCM-40023(94)

  「広島節」(広島)
            ○小杉真喜子KICH-8205(96)

  「三原やっさ節」(広島)
    《見たか聞いたか 三原の城は 地から湧いたか 浮き城か》
  盆踊り唄。徳島県に「三原やっさ」と同系統の「阿波踊り」が伝わっている
が、共に九州の「ハイヤ節」が変化したもの。「三原やっさ」と「阿波踊り」
は唄の部分だけが異なり、踊りも伴奏も似ている。「阿波踊り」は、大正の中
頃、唄の部分だけ「よしこの節」に変えられてしまった。昭和4(1929)年8月、
秩父宮ご夫妻が県下を訪れたのを記念して、NHKが歓迎番組を放送。この中
に地元の奥迫鉄治が唄う「三原やっさ」があった。その時、今日の形に整理さ
れたという。
            ○奥迫  鉄治COCJ-30339(99)

   「宮島音頭」(広島)
     《我は筑紫の 者なるが 今年はじめて 宮島の
         山の景色を 見渡せば 聞きしに勝る 厳島》
  毎年、佐伯郡宮島町の厳島神社の境内・御笠浜で行われる盆踊り唄。今から
四百年あまり前のこと、伊予水軍に属する多賀谷(多賀江)一族の者どもが宮島
参詣に来島。神事の舞いを侮辱して帰途についたが、途中、嵐に遭遇して全員
が海に沈む。その後、彼らの霊が付近を航行する船や、島民にたたりをもたら
す。そこで、毎年7月16日、慰霊のための踊りを奉納。それがこの唄の起源
という。歌詞は、名所や宮島までの道中を唄った七五調の反復型。こうした盆
踊り口説きは、中国地方で広く唄われているが、厳島神社の芸能の影響で、か
なり洗練されている。
            ○高田  新司APCJ-5043(94)

<山口県>

  「岩国こぬか踊り」(山口)
    《岩国名物 こぬかの踊り 老いも若きも 踊りゃんせ》
  山口県東部の岩国は、慶長5(1600)年以来、吉川氏6万石の城下町。7月1
5日、城下町の町民が、男は女、女は男の衣装で、武士と共に踊ったのが伝統
となり、現在に伝えられている。
            ○佐藤 松子KICH-8114(93)

  「男なら」(山口)
    《男なら お槍かついで お仲間となって ついて行きたや 下関
        国の大事と 聞くからは 女だてらに 武士の妻 まさかの時には 締め
襷
        神宮皇后さんの 雄々しき姿が 鑑じゃないかいな》
  萩の女の心意気を唄う。文久3年(1863)6月、萩藩は米仏の軍艦と砲火を交
えた。菊ケ浜土塁を築く時、男たちは下関や三田尻へ警備に行って不在。留守
を守る婦女子が、たすき姿も勇ましく土木工事に従事した。曲は各地の花柳界
で唄われている「本調子甚句」で「おてもやん」などと同系統。その後、一時
すたったが、昭和10(1935)年、萩市で開かれた大博覧会の折り、市の助役・
市川一郎が、母親の記憶をもとに復元。踊りは、花柳寿豊が昭和12(1937)年
に振付けたもの。
            ○松江    徹VICG-2067(91)
            ○赤坂  小梅COCF-9749(91)

  「南蛮踊り唄」(山口)
    《南蛮押せ押せ 押しゃこそ揚がる 揚がる五平太の 立抗掘り》
  中国地方最大の石炭産出地・宇部市での操業は、天保(1830-43)の末とされ
る。本格的になったのは明治元(1868)年、船木の石炭局が設置され、洋式の技
術をとり入れてからである。炭坑では、直径4尺ほどのロクロをまわして綱を
巻き取り、綱の先の石炭箱を地上に引き上げた。ロクロを南蛮と呼び、足取り
に併せて唄われたのが「南蛮節」で、これが「南蛮音頭」の元形。昭和4
(1929)年、藤井清水が宇部電鉄取締役・浜田浅一などの招きで宇部を訪れたと
きにこの唄を聞き、それをもとして作曲した。
            ○米倉 慶子APCJ-5043(94)

  「よいしょこしょ節」(山口)
    《磨きあげたる 剣の光 雪か氷か 下関》
  県内各地で唄われている祝い唄。七七七五の詞型のあとに”ヨイショコショ
ーデ ヨサノサー”の囃し言葉が付く。もとは周防の大島地方で新夫婦が仲間
を招いて祝宴を張る時に唄われたもの。高杉晋作が座興で唄ったともいわれて
いる。
            ○小杉真喜子KICH-8117(93)
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