人間生命への回帰
コルトーとハスキル
文化の保存と継承
常懐悲感・心遂醒悟
礼と楽
島岡窯訪問
クラシック音楽の歴史に名をとどめる音楽家達の多くが求めた神。それは、狭義のキリスト教の神ではなかった。
彼らは、限定された教会において体験する神よりも、教派の枠を超えた神を確信し、自らに直接つながる存在としての神に対して、ゆるぎない信仰を持っていた。いわばその多くが、理神論的立場に立っていたのである。
バッハは、宇宙に遍満する根源的なリズムとハーモニーを希求し、それを楽譜に記し顕すことに全霊を傾けた。モーツァルトは、東洋の神にあこがれを抱き続け、ベートーヴェンは晩年に、インド哲学を深く探求して、キリスト教の神ではない神を求めている。
ベートーヴェンはこう語っている。
「音楽にあっては、神は他の人々よりもずっと、私に近い存在であることを私はよく知っている。私は恐れることなしに神と交わっている。音楽の啓示によって解き明かされるものは、神聖なるものへの帰依である」(ベッテーナ・フォン・ブレンターノの証言)。
神聖なるもの、それは芸術における至高・究極の境地であり、人間生命に内在する尊極の生命境涯と同義である。偉大なる芸術家は、皆一様にその境地に肉薄し、到達し、合一することを、自身の芸術の究極の目的としたのであった。
かつて、ウィルヘルム・バックハウスは、ベートーヴェンのコンチェルトを演奏するに際して、個性と音楽解釈の異なるカール・ベームとの共演について、こう言ったことがある。ベートーヴェンの音楽に対する解釈は、ベームと異なる。しかし、ベートーヴェンの音楽を通して、神の心に近づこうとする点で一致している。だからコンチェルトが可能なのである、と。
優れた芸術作品の数々は、芸術における至高・尊極の生命境涯を希求し、それとの合一を願う芸術家によって生み出された。
神を超え、人間生命への回帰の実現には、深き哲理の裏付けを持った生命の視座が求められる。 (93.9.18)
アルフレッド・コルトーは芸術家としてだけでなく、教育者としても優れていた。折々の片言隻語に、味わい深いものが多い。
「人間には間違いが沢山ある。間違いを通って本物にいくほうが、間違わないでいくよりいい。3キロで行かれるところを18キロで回ってきても、六倍のものは得るんだから、ゆっくりで構わないから自分で探すように」
「他人が勉強しているのと全く反対のところに着眼しなさい。どんなことをしたって、完璧な演奏が出来ることはありえないから、完璧をめざすことはない」等々。
ディヌ・リパッティ、クララ・ハルキルと共に、コルトーの愛弟子・遠山慶子氏が、師のハスキルに対する教育を語っている(「風と光のなかで」弥生書房刊)。
ハスキルは、師のレッスンをいつも後回しにされ、長く待たされた後、ほんの少しの時間しか聴いてもらえなかったという。
ハスキルは、人気が上がってから、コルトーに自分の演奏を聴いてもらいたいと、切々と訴える手紙を出した。しかし、コルトーは行かなかった。それでも、コンサートに行った遠山氏に様子を尋ね、心には掛けていた。
ある日、遠山氏はレッスンを終え、コルトーとレマン湖のほとりを散歩中、師の心を聞かされる。
「どのような人にどのように教えるべきかを発見するのが、教師にとって一番難しいことである。クララはバランスがとれないような孤独な時に、最も素晴らしいものを生み出す才能がある。生涯満足をさせないことが、彼女を生かす道なのだ」
コルトーの教育は徹底していた。弟子は師を慕っても、師は応えない。しかも一生にわたって。遠山氏は、クララに師の心を話してあげて、慰めたい誘惑に何度もかられたが、それは絶対にしてはならないことだと身にしみて分かっていた。
弟子が師を思うは師の弟子を思うにしかずである。コルトーの教育はハスキルの芸術に不滅の光を与え、その演奏は今も人々の心に感動の灯を点じ続けている。 (93.12.18)
抜けるような青空が広がる冬の日の午後、哲学者・中村元博士のご自宅を訪問した(1994.2.22)。約二時間余り、途中、奥様も懇談の輪に入られ、談は博士所蔵の資料の保存問題に。
「私が死ぬと、家内はこの家もろとも、ブルドーザーにかけるといっております」。
博士の書庫は、自宅地下と近くの家屋。そこに膨大な文献・資料が収蔵されている。文化遺産の保存と継承は、実に難事である。
西田幾多郎の膨大な蔵書は、今なお、京都大学の地下に梱包されたまま保管され、目録には「梱」と記されているという。国会図書館は飽和状態で、東京大学も、所蔵のスペースがないとのこと。
ところで、中村博士の奥様の祖父・山口半六氏は、上野奏楽堂の設計者である。パリのエコール・ド・ポリテクニークに五年間学び、外国で建築学の教育を受けた数少ない文部省技官であった。大震災前の東京帝国大学、理科大学、仙台第二高等学校、兵庫県庁などもその手になっている。
奏楽堂は、明治23年(1890)、旧東京音楽学校(現東京芸術大学)の本館として建造された。音響効果を考慮して設計された日本最初の音楽堂だ。奏楽堂の歴史は、日本の洋楽の歴史そのものである。西欧の音楽文化は、奏楽堂を通じて日本に根付いた。本邦初演の演奏会が開催され、日本洋楽の出発を飾った音楽家たちは、奏楽堂のステージから世に出ている。
この奏楽堂、老朽のため、単なる過去の遺物にされてしまう危機に瀕した。昭和55年(1980)、芥川也寸志、黛敏郎氏らの「奏楽堂を救う会」が発足。それから七年半、文化継承の意味を真に理解する人々の情熱と努力が実る。同62年(1987)、元の場所から少し離れた現在の場所に、復元移築工事が完了。奏楽堂は見事に蘇った。
文化は一挙に出来上がるものではない。厚い時の積み重ねが、文化に深い表情を持たせる。継承は文化の根底であり、文化は継承によって育ちゆく。芸術活動の根源的意義は、前世代の英知を尊重し、歴史の重みと伝統を継承することだ。中村博士の言葉である。
シューベルト(1797-1828)の一生は、挫折と不遇の一生であった。彼の生涯と作品を見ていると「常に悲感をいだき、心遂に醒悟たり」という仏典のフレーズが浮かんでくる。
「悲観」は絶望であり、そこに希望の光はない。「悲感」は心を浄化し、心の内奥にひそむ本来の自己を目覚めさせてくれる。心が醒悟すると、見えないものが見え、聞こえない音が聞こえてくる。悲感は、抑圧され、軽視され、屈辱と、断腸の思いと、やり場のない怒りが高まるとやってくる。
心血を注いで作曲したロザムンデ(1823)は、台本が悪く、わずか二度の上演で世間から忘れ去られ、死後39年(1867)、二人の熱烈なシューベルティアンに発見されなかったら永久に日の目を見なかった。
1824年、グラーツタイア辺境の音楽協会名誉会員になり、感謝のしるしで送った交響曲ロ短調(D.759)はいつの間にか紛失(1865年発見)。
1836年、ウィーンの音楽愛好者協会の名誉表彰の返礼として、ガスタイン交響曲(D.849)を献呈したが、演奏されないまま行方不明。
亡くなる九カ月前に書き上げた交響曲ハ長調(D.944)は、死後十年間、埋もれていた。
生涯独身で定住すべき家はなく、永続的な困窮と不遇。知らない間に進行する恐ろしい病気。そうした悲劇的状況のなか、二十代半ばを過ぎて、彼の芸術の深まりは、大きく崇高なものに向かう。
シューベルトの曲は、朗らかで悲しい。悲しいのに明るい。美しくとも、どこかに涙をたたえている。この両面が微妙に混じり合い、名状しがたい感動を聴く者にもたらす。不滅の歌曲の数々は、彼自身が若き水車小屋職人の苦しみ、冬の旅人の何倍もの悲しみを、心にいだいていたからこそ出来上がった。最後の歌集「白鳥の歌」は、比類なき透明さで内面の統一が実現され、不思議な光と影が、独特の交錯を見せている。「影法師」は、シューベルト的象徴芸術の最奥を究めたものだ。
げに「常懐悲感・心遂醒悟(じょうえひかん・しんずいしょうご)」は、芸術創造のキーワード。 (94.6.18)
古来、中国では教養人が修めるべき六芸を礼・楽・射・御・書・数と挙げ、なかでも礼と楽とを最も重視した。礼とは崇高で優雅、謙譲にして恭順な典礼のさまであり、楽とは音楽芸術のことである。
礼=禮の偏は、祭壇の卓机に動物のいけにえが置かれ、両側から血がしたたっている形である。旁の曲は、稲穂や麦などが容器に満ちている状態で、豆は神に捧げるための高坏(たかつき)を表す。
この典礼の精神が、実生活の行為全般に働いた時、人間の振る舞いは傲慢を離れて麗しいものとなろう。常に報恩・感謝の念を抱き、人間は人智を超えた存在によって生かされているという謙虚な生き方は、優れて宗教的であると思う。
礼とは、単なる礼儀や丁寧な物腰のことではない。形態の美しき動きと、良心の善き意志との統一であり、振る舞いにおける善美の統一としての理念である。
楽の本義については「礼記」の「楽記篇」に、東洋の伝統的な解釈に基づく記述がある。音楽の基本である音は、外から与えられるものではなく、人間の心の内部から発するものだという。内部とは、外部世界に触発されて動く感情のことである。故に悪しき音を聴けば感情が悪化し、良き音を聴けば感情は醇化される。感動が声となって現れ、声が対応して、音の変化が一定の方向で関係し合う時、メロディーやリズムを持った音楽ができる(趣意)。
音楽は人間の内面的平安をもたらし、典礼は人間の外面的順正をもたらす。両者が整えば、人々は互いに猜疑の心なく、争うこともないだろう。故に、音楽は世界の平和を内面から支えるものとなる。
中国唐代に現れ、天台性具思想の花を絢爛と咲かせた妙楽湛然(たんねん)(711-782)は「礼楽前(さき)に馳せて真道後に啓(ひら)く」と述べた。礼・楽の本義が、広く人々の中に定着して後、宇宙・生命を貫く真実の道が、大きく開くと言うのである。
今、民衆の中に繰り広げられている民音の音楽運動。それはまさしくその方軌に則った、着実にして確かなる平和運動であることを思う。 (94.9.18)
昨年末の快晴日、武蔵野美大学長・水尾比呂志氏、聖心女子大教授・細井雄介氏、文部省放送教育開発センター教授の大橋力氏ら、民族芸術学会の東京メンバーと、栃木県益子町の島岡達三窯を訪ねた。
島岡達三氏(1919-)は、独自の象嵌縄文の技法を創案。現代の益子陶芸を代表する陶芸家だ。氏が二十歳の昭和十四(1939)年、初対面であった浜田庄司に、師事することを申し出たという。
島岡氏の熱意と素質を見抜いた浜田は、入門を許可。以後、師が亡くなるまでの四十年にわたり、薫陶を受ける。浜田は、あまりにも幅広い作域で知られるが、その浜田は、弟子に対して独自の作域確立の必要を説いた。
島岡氏の陶芸を象徴する縄文象嵌の技法は、組紐師の父が作る組み紐を転がし、さまざまな縄文の文様を陶土の表面に作っていくもの。その窪みに白土を象嵌して、新しい作品が生まれる。それは師の浜田にない独自の技法であった。
1965年、阪急グループの総帥・清水雅氏(1901-94)との出会いは、島岡氏のその後を大きく変える。芸術家を育てるには、忍耐と温かい理解の目が不可欠である。育てるとは、素立てるであり、一人で立てるようにすることだ。
清水氏は、芸術を企業宣伝の手だてとはしなかった。芸術と文化にたいして、深い見識を持っていた。清水氏は、93年、自らが所蔵する島岡氏の主要作陶201点を、栃木県立美術館に寄贈している。
島岡氏の登り窯は、年に何度か火が入る。仕事場には、リスニングポイントを限定しないボーズのスピーカーが取り付けられている。クラシック、主にバッハのCDが愛聴盤であるとか。島岡氏の陶器には、バッハが染み込んでいる。
焼き上がった陶器たちが徐々に冷えていく時、チリチン、ピリン、チンチン、ピリンと、高く、低く、リズミカルで、ひそやかな音を発し続ける。清澄で、心なごむその音は、誕生の喜びを謳い上げる陶器からのメッセージだ。芸術、文化の意味、人との出会いの不思議等々、思うこと多々の一日であった。 (95.2.18)
<民音音楽資料館館報「みゅーずらんど」No.24〜29所収>
(c) 1993-1995,2000 暁洲舎