【三島村】
仲哀(ちゅうあい)天皇の時、神功皇后(じんぐうこうごう)(1)がおられた。その頃、隣国(りんごく)に新羅(しらぎ)・百済(くだら)・高句麗(こうくり)という国があって、日本とは いろいろと取引があり交際もしていたが、時には争いもした。ある時、いざこざが起こり、とうとう戦争が始まった。
皇后は軍勢を率(ひき)いて出発することになったが、皇后には一人の赤ちゃんがおり、戦(いくさ)に連れて行くわけにはいかない。そこで、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に戦勝を祈願(きがん)したときに「この児を預かってください」と願い、社殿(しゃでん)に寝かせておいた。
三島路から西に進もうとしたところで
皇后は、自分は女であるから このままの姿で敵に向かっては
嘗(な)められると思った。ここは男装をして顔を醜(みにく)く物凄く変えなけれはならないと思い、通りかかった磯良(いそら)神社(2)に立ち寄り祈願して、社(やしろ)の前に
こんこんと湧き出ている清泉の水で顔を洗った。すると、何と今までの美しい顔は忽(たちま)ち大きな疣(いぼ)だらけの黒い顔となり、側近の部下も仰天(ぎょうてん)する有様(ありさま)であった。
皇后は
そのまま軍勢を率いて三韓(さんかん)に渡り、見事に勝利して日本に帰ってきた。さっそく赤児(あかご)を預けた八幡宮に舞い戻って社殿に上ると、元気な赤児が皇后を見て笑っている。思わず抱きしめて
お礼と戦勝の報告をした。皇后の留守中、この赤児は数十羽の鳩が育てていたのであった。この赤児が
のちの応神天皇である。
皇后は続いて磯良神社に参り、ここでも戦勝の報告をしたのち、社前の清泉で顔を洗うと、何と
今までの醜い顔は消え去り、元の美人の姿に変化した。
のちに磯良神社は疣水(いぼみず)神社と呼ばれ、遠近から
この清泉の水をくみ取りにくる人が
みられた。この泉のそばには大きな藤の古木があり、根が泉の下に浸(ひた)っていることから、藤の樹液が皮膚(ひふ)に薬効したと伝えられている。当時の木は既に枯(か)れており、今は東側の泉の近くに数本あるが、樹齢(じゅれい)は百年くらいのものである。
現在の本殿(ほんでん)東側辺りには一本の木で八重(やえ)と一重(ひとえ)の花が咲く珍しい桜があり、樹齢数百年で天然記念物にも指定されていたが、残念ながら昭和10年頃に枯れてしまった。昔は桜の名所で、花見時には大勢の人が花見に来て
大変
にぎやかであった。木には特に疣があったわけではないが「疣桜」と呼ばれた。
近年中に清泉を改修する工事が施工されるという。近くに国道一七三号線や
その他の幹線道路もあり、騒がしくなった。
『わがまち茨木−民話・伝説編』(茨木市教育委員会
1984)
に所収、補訂
(c) gss042@1134.com 1986,91,99
【注釈】
(c) gss042@1134.com 1986,91,99