<池 上>
多摩川のほとり宗仲邸で入滅

 

 弘安五年(1282)九月十八日、日蓮は、武蔵国千束郷、多摩川のほとりにある池上宗仲の館に到着した。
 日蓮池上到着の報を聞いた各地の信徒達は、続々と参集したことであろう。
 九月二十五日から「立正安国論」の講義が始まる。日蓮の化導は「安国論」に始まり「安国論」に終わる。日蓮の破邪顕正、正法弘通の魂魄は、弟子信徒一同の胸に留め置かれたのである。
 十月十三日の早朝、日蓮は日興に「身延山付嘱書」を与え、身延山久遠寺の別当職を付嘱したという。いよいよ入滅の時が迫ったのである。
 同日辰の刻(午前八時)、日蓮は安祥として入滅した。その時、大地は振動し、庭の桜が一斉に咲き出したと伝えられている。
 釈尊は霊鷲山(りょうじゅせん)で八年間、法華経を説き、艮(うしとら=東北)の方向にある跋提河(ばつだいが)のほとり、沙羅双樹の下で涅槃を現じた。今また日蓮は、身延で八年と九ヶ月、妙法を講説して、同じく艮の方角にある多摩川のほとり、池上の地で入滅したのである。釈尊と日蓮と、仏の同道の姿に深き意味を思う。
 多摩川のほとりに立って、富士に沈む夕日を見る。荘厳、あたかも大聖の臨終に侍するの感があった。
 「仏日西山に入って遺耀(いよう)将(まさ)に東に及ばんとす」(新版p1407全p1037)。日蓮が不滅の滅の姿を現じて七百十五星霜。妙法は東土日本に厳然と興隆し、今や広布の潮流は、全世界に向けて、滔々と流れている。(完)

 


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