<波木井郷>
身延にて三百余編を執筆す

 

 身延の山中に建てられた急造の草庵は、日蓮の入山から四年後には、柱は朽ち壁は落ちてしまう。草庵を取り巻く環境は、決して良いものとはいえなかった。
 「庵室は七尺・雪は一丈・四壁は冰を壁とし……」(新版p1467全p1078) 「坊ははんさく(半作)にてかぜ(風)ゆき(雪)たまらず・しきものはなし」(新版p1495全p1098)――日蓮は、身延における厳しい生活のありさまを、このように述べている。
 身延山は、当時、波木井郷に属し、波木井、飯野、御牧の三郷は、地頭・波木井(南部)六郎実長の領地であった。
 日蓮のもとへ、各地の弟子・檀那から、さまざまな便りが届き、日蓮に目通りしたくて、山を登ってくる信徒がいた。遠く佐渡の地からは、老齢の阿仏房が三度もやってきたという。
 日蓮は、そうした人々にあてて懇篤な手紙をしたため、種々、教導している。日蓮は、身延で三百編以上の書を述作した。今に遺された御書の四分の三あまりを身延で著したわけである。
 身延入山から八年目。弘安四年(1281)五月、再び蒙古が日本を襲う。
 日蓮は、国土の安泰と人々の無事を、大御本尊に祈ったことであろう。蒙古軍は、台風のためにまたも敗退する。
 その年の十一月、十間四面の大坊が完成した。身延の山中は、落成を祝う人々で時ならずにぎわったという。

 

次のページ
(富士川)


目次 前のページ(熱原郷)