米ヶ浜

<米ヶ浜>
鎌倉弘教へ上陸の第一歩

 

 米ヶ浜は、日蓮着船の場といわれ、軍港で知られる横須賀市の深田台付近の浜辺をいう。そこは富士が真正面にあって、日蓮は、富士の裾野に上陸の第一歩をしるしたかのように思える場所である。
 米ヶ浜に到着する直前、横須賀からそう遠くないところに浮かぶ猿島に、嵐を避けて、一時、避難したという。猿島は、東京湾内ただ一つの自然島で、戦時中、海軍の要塞があった。レンガとコンクリートで頑丈に造られた壕が残っており、釣り人のための便船が通っている。
 房総半島の南無谷・法華碕から米ヶ浜まで、およそ三十キロ。鎌倉時代の航海は、陸岸を見ながら船を走らせる地乗り航法がとられていた。
 ちなみに近年、壇ノ浦の合戦(1185)で使われた軍船が復元され、時速は四・四ノット(8.2キロ)と推定されている。一般の船はもっと遅く、時速五キロ以内といわれている。そうすると、南無谷、米ヶ浜間、約六時間要したわけだ。
 当時、幕府の最高権力者は、執権・北条時頼であった。これまで、幕府は有力御家人による合議制によって、政治が維持されていたが、寛元の乱(1246)と翌年の宝治の乱を巧みに切り抜けた時頼は、以後、北条氏得宗家による専制政治を確立していき、ようやくその体制が整いつつあった。
 船上の日蓮は、妙法弘通の構想を、種々練りつつ、政都鎌倉に思いをはせていたことだろう。

 

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