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日本の民謡 曲目解説<青森県> つ
---------------------------------------------------------------------- 「津軽あいや節」(青森) 《唄が流れる 津軽の唄が よされ じょんから あいや節》 江戸時代、熊本県牛深(うしぶか)港で唄われていたハイヤ節は、北前船の船 頭たちによって各地の港に伝えられた。北前船は大阪から下関を回り、北海道 の松前に向かう。「ハイヤ節」は、津軽領では鯵ヶ沢や青森、野辺地(のへじ) などの港へ移入され、港の女たちが酒席で盛んに唄っていた。アイヤは、唄い 出しのハイヤがなまったもの。初めは「南部アイヤ節」程度の素朴なものであ ったが、津軽三味線の伴奏に助けられ、技巧的な唄になっていった。「津軽じ ょんから節」「津軽よされ節」と共に、津軽の三つ物といわれる。 大御所・浅利みき(1920-)に、津軽のカラキジ山本謙司はさすがにうまく、 高橋つやは字余りで唄う。若さあふれる須藤理香子。 ○山本 謙司TOCF-5012(92) ◎浅利 みきAPCJ-5031(94) ○須藤理香子VDR-25215(89) ○高橋 つやK30X-216(87) COCF-9302(91) ○三浦 隆子VICG-2060(91) KICX-81007/8(98)
---------------------------------------------------------------------- 「津軽おはら節」(青森) 《お山晴れたよ 朝霧晴れた 裾の桔梗も 花盛り 谷の向こうで まぐさ刈り》 熊本県牛深市の港町で生まれた「ハイヤ節」は、日本海を北上する北前船で 各地の港に伝えられた。越後で「おけさ」、津軽で「津軽あいや節」を生み出 す。「ハイヤ節」は津軽海峡を通って更に南下、宮城県の塩釜(しおがま)港で 「塩釜甚句」を生む。この「塩釜甚句」が逆に北上、青森県八戸(はちのへ)あ たりに移入されて「塩釜」になる。「塩釜」は、漁師や船頭相手の女たちが唄 う酒席の騒ぎ唄で、七七七五調の四句目の前に「オハラ」と入るところから 「おはら節」と呼ばれる。七七七五調二十六文字では、唄がすぐに終わり、座 がもたないので、瞽女や座頭たちは字余りの口説きにした。明治20(1887)年 代のこととされる。 大正年間、成田雲竹(1888-1974)が命名。 木田林松栄(1911-1979)の三味線で浅利みき。同じく福士リツ。沢田勝秋の 華麗な三味線前奏が2分22秒ある山本謙司(CF30-5003)。 ◎山本 謙司CF30-5003(89) TOCF-5012(92) ◎浅利 みきVICG-2060(91) ◎福士 りつK30X-216(87) ○須藤理香子VDR-25215(89)
---------------------------------------------------------------------- 「津軽音頭(秋田節)」(青森) 《西の鯵ヶ沢の 茶屋の 茶屋の娘は 蛇の姿》 成田雲竹が祖父の膝で遊んでいたころ、秋田からやってくる門付け芸人(秋 田坊)が、三味線を弾きながら「秋田節」を唄っていた。大正になって、雲竹 が津軽三味線の名手・梅田豊月(1885-1952)の伴奏でこの唄を初放送した際に 「津軽音頭」と改名。曲は音頭でなく、甚句の一種。 ◎成田 雲竹COCJ-30668(99) ○山本 謙司CF30-5003(89)
---------------------------------------------------------------------- 「津軽数え唄」(青森) 《では一つとせ ひと目みたなら すぐわかる 頭隠しても 尻が出る 飲まぬふりして 口拭い ふらつく腰を 伸ばしても 連れ添う女房にゃ すぐわかる どんな言い訳 したとても 鼻の赤いのは隠されぬぞえ》 ○福士 りつCOCJ-30332(99)
---------------------------------------------------------------------- 「津軽願人節」(青森) 《昔 江戸より 願人和尚が 寝物語に この唄を》 代参や代垢離、代願をする願人坊主が唄うので「がんにん節」と言う。京都 鞍馬山大蔵院の支配下にある願人坊主たちは、全国を回って「御祈祷」「チョ ボクレ坊主」「アホダラ経」「住吉踊り」などを演じて銭をもらい、生活して いた。住吉踊りは、長柄の傘の柄を叩き、拍子をとりながら音頭取りが唄い、 その周りを菅笠をかぶって、うちわを持つ踊り手が跳ね回る。その時の唄が、 伊勢神宮の遷宮式に使う御用材を曵く時に唄う「お木曵き木遣り唄」とも「伊 勢音頭」とも呼ばれる「ヤートコセー」であった。明治に入ると願人坊主が姿 を消したために「がんにん節」もすたってしまった。 ◎山本 謙司CF30-5003(89) TOCF-5012(92)
---------------------------------------------------------------------- 「津軽木挽き唄」(青森) 《木挽き稼業は 呑気なものだ 明け暮れ谷川 水の音》 山で働く木挽き職人たちが、大きな鋸で材木を板にひくとき、調子に合わせ て唄う。木挽き職人には、青森県旧南部領から岩手県にかけての農民と、広島 県下の農民が、冬の農閑期利用の出稼ぎ仕事として働いているうち、専業にな った者が多い。前者を南部木挽き、後者を広島木挽きと呼ぶ。この木挽き職人 が各地の山で働いたため、唄も全国に広まり、近畿以東は南部木挽き、西は広 島木挽きの唄が唄われている。「木挽き唄」には郷土性が乏しく、唄を普及し た民謡家の節回しに違いがある。 ◎成田 雲竹COCJ-30668(99) ○山本 謙司CF30-5003(89)
---------------------------------------------------------------------- 「津軽三下り」(青森) 《奥山で 小鳥千羽の 鳴く声聞けば 親を呼ぶ鳥 鳩ばかり》 「津軽馬方三下り」が詰まったもの。「馬方三下り」は「追分節」とも呼ばれ る。江戸時代の末頃、長野県北佐久郡軽井沢町にある中山道と北国街道が分岐 する追分の宿で、飯盛り女が旅人相手の酒席で唄っていた騒ぎ唄。街道の駄賃 づけの馬子が唄う「馬方節」に、三下りの三味線の手をつけたもの。この唄が 各地に広められ、秋田では「本荘追分」を生み、北海道で「江差追分」を育て る下地となる。「馬方三下り」が、津軽領に移入された当時は素朴なものだっ た。津軽坊などの遊芸人によって磨き上げられ、今日の華麗なものとなる。 ◎山本 謙司CF30-5003(89) ○高橋 つやCOCF-9302(91) ○佐藤 りつCF-3453(89) ○須藤理香子VDR-25215(89)
---------------------------------------------------------------------- 「津軽塩釜甚句」(青森) 《蒸気ゃ出て行く 煙は残る 残る煙は 癪(しゃく)の種》 元唄は「南部あいや節」で、明治の半ば過ぎまで、宮城県の塩釜では「塩釜 甚句」を「あいや節」と呼んでいた。これが逆輸入の形で八戸の鮫港に上陸し て「津軽塩釜甚句」になり、「津軽おはら節」になった。 ○小松 祐二APCJ-5031(94)
---------------------------------------------------------------------- 「津軽じょんから節」(青森) 《お国自慢の じょんから節よ 若衆唄えば 主人の囃し 娘踊れば 稲穂も踊る》 越後の瞽女や座頭などが、新潟県の「新保広大寺くずし」を津軽へ持ち込ん だ。津軽坊など、盲目の芸人たちがその唄を磨き上げ、さらに黒川桃太郎 (1886-1931)、梅田豊月(1885-1952)、白川軍八郎(1909-1962)、高橋竹山(1910 -1998)、木田林松栄(1911-1979)などの三味線の名手たちが伴奏を華麗なもの とした。明治20(1883)年頃までの節を旧節、昭和初期までの節を中節、昭和 3(1928)4年頃から唄い始めたのを新節と呼んでいる。曲名のいわれは不明だ が、一説によると、慶長2(1597)年、大浦城主で津軽藩初代藩主為信は、南津 軽の浅瀬石(あぜし)城主・千徳政氏(まさうじ)を滅ぼした。為信は、千徳家の 墓まであばこうとしたため、菩提寺の僧・常縁(じょうえん)は激しく抗議した。 常縁は追われる身となり、遂に浅瀬石川に身を投じて果てる。村人たちは同情 して、この悲劇を唄にした。常縁が身を投げた場所を常縁河原と呼び、それが 上河原になり、じょんからになったと伝えている。華麗に語る面白さが特徴。 唄は大御所・浅利みき(1920-)。近年のライブで聴く浅利みきの歌唱には、 一種の凄みさえ感ずる。本当の芸の力とは、加齢とともに輝きを増すことが分 かる。名手・木田林松栄の糸で唄う旧節の「じょんから」(K30X-216)もよい。 ◎山本 謙司CF30-5003(89) TOCF-5012(92) ◎浅利 みきK30X-216(87) VICG-2060(91) COCJ-30332(99) APCJ -5031(94) ○高橋 つや28CF-2874(88) ○須藤理香子VDR-25215(89)
---------------------------------------------------------------------- 「津軽甚句(どだればち)」(青森) 《高い山コから 田の中見れば 見れば田の中 今稲ゃ実(もで)る》 弘前市一帯の盆踊り唄。もとは「どだればち」と呼んだ。津軽方言を巧みに 交えて唄う。津軽半島の西側、七里長浜の砂丘のつきたところにある港町・鯵 ヶ沢の盆踊り唄「鯵ヶ沢甚句」が、弘前方面に移入して「津軽甚句」になり、 北海道に渡ると「いやさか音頭」になった。 津軽民謡の第一人者である成田雲竹(1888-1974)の貴重な音源がCD化され た。青森放送局保存のテープによるものだが、高橋竹山(1910-1998)の相三味 線で、自ら曲の解説をしながら唄うものである。CD発売元の日本コロムビア は、昭和16(1941)年にNHKが編成した「東北民謡視聴団」に随行した前身 の日本蓄音機商会以来、民謡に対する独自の伝統と見識を持っている。 ◎成田 雲竹COCJ-30670(99) ◎山本 謙司CF30-5003(89) TOCF-5012(92) ○須藤理香子VDR-25215(89)
---------------------------------------------------------------------- 「津軽タント節」(青森) 《爺と婆とが 夫婦の別れ 離縁状代わりに 紙包み 開いて見たら 驚いた》 くしゃくしゃ紙の 中よりも 小さな石ころ 飛んで出た しわくちゃ婆でも 恋し恋しと 言うたその訳だんよ》 秋田民謡の名手・黒沢三一(1894-1967)は、昭和10(1921)年頃、仙北郡の 「番楽」と呼ばれる郷土芸能の中で、藁打ちの振りに合わせて唄うものを独立 させ、「藁打ちタント節」の名で発表、県の代表的民謡になった。昭和12 (1937)3年ごろ、成田雲竹の弟子・高谷左雲竹が、これに「津軽じょんから節」 の伴奏を取り入れて「津軽タント節」を作る。昭和30(1955)年代、民謡が大 流行し始めると、秋田のものより派手なところから、次第に注目されるような った。 ◎浅利 みきAPCJ-5031(94) ○須藤理香子VDR-25215(89) ○福士 りつCOCF-9302(91)
---------------------------------------------------------------------- 「津軽の子守唄」(青森) ◎二代目津軽家すわ子KICH-2023(91)
---------------------------------------------------------------------- 「津軽ばやし」(青森) 《嶽(だけ)の白雪 朝日で溶ける 溶けて流れて 郷(さと)に出る》 新潟県の村上方面へ出稼ぎに行った津軽の人々が、村上の盆踊り唄を持ち帰 った。酒席の酒盛り唄である「村上甚句」が津軽化したもので、戦前は津軽芸 人の一団が各地を巡業するとき、最初に客寄せに唄っていた。それには「津軽 あいや節」の傘踊りが付き物であった。当初「越後甚句」と呼ばれていたが、 昭和20(1945)年代に入って「津軽ばやし」と呼ばれるようになった。 ○須藤 雲栄COCJ-30332(99)
---------------------------------------------------------------------- 「津軽盆唄」(青森) 《一つ唄います 音頭取り頼む 音頭取りよで 手が揃う》 ○菊地 鐵男COCF-9302(91)
---------------------------------------------------------------------- 「津軽山唄」(青森) 《十五 十五七が 十五になるから 山登り 奥のお山に 木を伐るに 腹も空いたし 日も暮れる これを見せたい 我が親に》 津軽では祝いの席で唄われる。曲名からは、山で働く仕事唄のように思える が、山の神をまつるお祝いのときに唄う祝い唄。岩木川東側で唄われる「東通 り山唄」と、西側の「西通り山唄」の二種類の節回しがあり、「東側」のほう は古風であまり唄われず、ふつう「津軽山唄」といえば「西通り」のものを指 す。成田雲竹、川崎きえといった名人たちが、この唄に磨きをかけた。歌詞か ら「十五七」「十五七節」などと呼ばれている。 この唄を今日の形にまとめあげた成田雲竹(1888-1974)は、現在知られてい る津軽民謡のほとんどを世に出した。格調高い張りのある声と、美しい津軽弁 で唄われる雲竹の民謡は、以後の演唱の規範となっている。 ◎成田 雲竹COCJ-30666(99)(西通り、東通り) ◎山本 謙司CF30-5003(89)(西通り) ○成田 武士K30X-216(87)(西通り) ○成田雲百合CF-3453(89)(東通り)
---------------------------------------------------------------------- 「津軽よされ節」(青森) 《りんご畑で 別れてきたが 顔が夜空に ちらついて 思い切る気を 迷わせる 未練月夜は 薄曇り》 唄の終わりに”ヨサレソラヨイヤー”と付ける。もとは「黒石よされ」のよ うな七五七五調の短い詩型の唄だった。この種の唄が秋田県鹿角市方面へ入る と、二つ合わせて七七七五調の唄に変えられ、「南部よしゃれ」に発展。それ が再び津軽に逆輸入された。瞽女や座頭にとって、七七七五では短かすぎて座 が持たないため、字余りの長編ものにした。大正の初め、新内入りと称してア ンコ入りの「字あまりよされ節」を嘉瀬の桃太郎が作る。これが現在の「津軽 よされ節」で、長編の「よされ節」の場合は”調子変わりのよされ節”と枕を 付けてから唄っていた。よされ、おはら、じょんからを津軽の三つものと呼ぶ。 津軽三味線に一歩も譲らず、歯切れのよい津軽弁をぶつけていくところが三つ ものの魅力。東北各地によされ節があり、地名を付けて区別しているが、いず れも津軽地方を巡り歩く遊芸人が唄っていたもの。 須藤雲栄は高橋竹山が尺八を吹き、成田雲百合が太鼓を叩く。語尾を津軽三 味線の左指のはじきのように回す福士リツの唄をCDで聴きたい。津軽女のた くましさを出す高橋つや。須藤の若さ溢れる歌唱もよい。 ◎山本 謙司CF30-5003(89) TOCF-5012(92) ◎須藤 雲栄VICG-2060(91) ○高橋 つやCOCF-6547(90) ○須藤理香子VDR-25215(89)
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