松岡 裕治
日蓮が没してすでに七百年が経過した。日蓮の足跡を留めた場所は、今も各地に伝えられている。日蓮の没後から現在にまでの間に、日蓮の伝記が数多く作り出された。その伝記のなかには、日蓮の実像を闡明し、その実人格に直参することを目指したものもあるが、史実を歪め、日蓮の行動を粉飾して、かえって日蓮の実像を矮小化したものも少なくない。
ここでは日蓮の史跡のうちの二、三を取り上げ、その信憑性を検討してみた。
日蓮は開宗の日の早朝、朝日に向かって合掌し、初めて七字の題目を唱えたという。その場所は清澄寺南方にある高台で、現在、日蓮の銅像が建てられている所とされている。
日蓮が朝日に向かって合掌し、題目を唱えたことについての記述は「法華本門宗要抄」が初出である。古来、宗要抄は偽書と断定されているが、宗要抄の真偽はともかく、日蓮が開宗の日の早朝、朝日に向かって題目を唱えたという伝説は、少なくとも宗要抄成立の頃から現在にいたるまでの間、事実として伝えられてきた。この伝説が日蓮の名乗りや「顕仏未来記」「諫暁八幡抄」等の遺文にみられる記述から推測して、ありうべき事だとしても、題目創唱の場所が現在の清澄寺・旭の森であるとする根拠は極めて薄弱である。
日蓮没後から明治にいたるまでに成立した日蓮伝、及び日蓮の史跡に関連した記述を有する房総史書や紀行文のなかには、題目創唱の地を現在の旭の森としたものは見当たらないようである。のみならず、房総史書や紀行文には、日蓮の題目創唱の地として、麻綿原初日峰(1)、小湊の朝日の祖師堂(2)、清澄山中腹の朝日森(3)の三個所を伝えている。
麻綿原初日峰は清澄寺東北方にあり、清澄寺の寺域が「三里四方」(4)であれば、麻綿原はその寺域に含まれている。この場所を地理的環境等から見て、最も適切とする説がある(5)。朝日の祖師堂は、小湊から半里ばかり離れた所にあって「此堂は誕生寺と真向う見え渡す」(6)位置にある。ここから清澄寺は遠いが、午の刻までに往復できないことはない。清澄山中腹の朝日森は、かつて清水竜山によって否定された旭森のことである(7)。
以上三個所のうち、いずれを題目創唱の地とするかは更に検討を要するであろう。しかし少なくとも現在の旭の森を以て、題目創唱の地と決定することはできないのである。
弘長元年(1261年)、日蓮は伊豆へ流罪となった。日蓮を船で護送した役人は、伊東から南へ下った川奈の沖に浮かぶ岩礁の上に、日蓮を置き去りにしたという。潮が満ちてくれば海中に没する岩礁は、俎岩と呼ばれて現在に伝えられている。
この俎岩は、後の日蓮伝の元型となった「元祖化導記」や「註画讃」には記載がなく、それ以後の日蓮伝には、日蓮の着船地を「少々目が浦」(8)「小目浦」(9)「篠海浦」(10)「伊東の浦」(11)等と記している。日蓮は「その津につきて」(12)と述べているが、津とは渡し場、船着き場を意味する語(13)であって、津から俎岩の岩礁を想起するには、相当無理があるように思われる。
鎌倉・由比ヶ浜から伊東までの海上距離は、約55kmである。壇ノ浦合戦で使われた軍船は、最高時速8.2kmと推定されている(14)。日蓮を乗せた船が、当時の航法である陸岸を見ながらの地乗り航法で走り、時速5kmとして十一時間以上の距離である。「一谷入道御書」の真蹟に、伊豆流罪の日が五月十三日(15)とあるから、日蓮の市中引き廻しが十二日の日中、伊豆への出船が十三日の早朝としても、川奈到着は夕刻になるであろう。伊豆半島は富士火山帯の一部に属し、地盤の基礎は火山岩屑の凝固でできた凝石灰岩類である(16)。その岩礁に木造船を近づけることの危険を考えても、俎岩伝説の信憑性は薄いといえるであろう。
伊豆流罪の際、一か月あまりにわたって日蓮をかくまい続けたのは船守弥三郎夫妻であった。初めて会った日蓮を、我が身の危険を省みず世話したという。日蓮に帰依した宿谷入道、依智本間邸における警護の武士、佐渡の阿仏房夫妻、一谷入道夫妻は、日蓮の人格に直接触れて帰依したのである。そこに日蓮の感化力を見ることができる。鎌倉から長時間、日蓮と同船した者が、果たして日蓮を俎岩に置き去りにすることができたであろうか。荒唐無稽な伝説の創作が、日蓮を矮小化するという所以である。
文永八年(1271年)十月十日、日蓮は依智を発って佐渡に向かった。久米河(川)を経て寺泊まで、十二日を要したという。
後世の日蓮伝には、十日久米河、十一日新倉、十三日児玉、十四日栗津(須)とだけ記し(17)、その後の道程には触れていない。
佐渡への道は大きく分けて二つが考えられる。一つは高崎から三国峠を越えて寺泊にいたる道と、もう一つは碓氷峠から信濃路を経て、日本海側を寺泊に向かう道である。近世になってこの両道は三国街道、北国街道として開かれ、宿駅も確立された。そこで大まかな計測ではあるが、栗須から寺泊までの主要宿駅をたどってみると、三国街道経由が約250km、北国街道経由が約330kmとなった。実際には、これより遠くなると考えられる。
公式令・行程条に、人が一日に歩く距離は五十里とある(18)。和銅六年(713年)に、一歩が六尺に改正されたから、五十里は約28kmである。そうすると三国街道経由が約九日、北国街道が約十二日の行程となるであろう。日蓮が依智を発った日は新暦で十一月二十日である。「北越雪譜」に「健足の飛脚といへども雪途を行くは一日二三里に過ず」(19)と記されるほどの豪雪地帯を行くことを考えると、寺泊への道は、三国街道を越える最短距離が選ばれたと推定される。
依智から久米川まで鎌倉街道をたどると、約34kmである。これが日蓮一行の一日目の行程であった。佐渡へ流罪の道行きであり、新潟が雪に閉ざされてしまうまでに、寺泊へ着かなくてはならない旅である。故に久米川から栗須までを四日の行程として、新倉、浦和へ迂回し、児玉、栗須に宿泊したという伝説には疑問が生ずる。むしろ鎌倉街道を高崎に向かい、菅谷か大蔵、児玉、渋川あたりに宿泊したと見る方が適切でないかと思われる。新倉や新曽、浦和、栗須に伝わる日蓮の史跡の存在から、その地を直ちに日蓮の足跡が留められた地とすることには、慎重な検討が必要であろう。
ともあれ日蓮の史跡について、その信憑性を確かめていった時、根拠の曖昧なものが多いようである。日蓮の宗教を更に現代に復権させるためにも、その宗教的世界を追体験的に理解し、把握することは必須といえるであろう。史実を確定し、日蓮の実像を明らかにしていく作業は、これからも続けられるべきなのである。
(「印度学仏教学研究」第三十巻第一号 一九八一年一二月)
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