教判とは、経典の形式、意味、内容を分類整理して、各経典間の優劣・浅深を判定することをいう。教判論の原型は、既にインド仏教のなかに見出すことができるが、教判論が盛んに行われたのは、中国仏教においてであった。
中国で教判論が発達した理由として、中国にもたらされた経典が、インドにおける経典成立の歴史的発展の事実にかかわりなく、前後ばらばらにもたらされたことから、そうした経典すべてを、歴史上の釈尊の金口直説と考えた故に、それに整然たる体系を与える必要があったからといわれている。
また、中国仏教者達は、一見、両立しないように思える諸経の教説間にも、仏教の教化目的から考えて、その間に調和を見出さなければならなかった。こうした理由から、中国で教判論が盛んに行われるようになったといわれている。しかし、これは仏教が究極の目的とする証悟という最も重要な事実を欠落させた考え方であると思われる。
仏教の経論は、八万法蔵といわれるほど膨大なものである。こうした経論が現在に伝えられてきた背景には、経論を伝持した幾多の仏教者の並々ならぬ努力があった。なぜなら、経論はひとりでに伝わるものではないからである。
釈尊の菩提樹下の正覚に始まる仏教は、以後、各地に流伝し、その国土と民衆に強い影響を与えてきた。かつてインド・中国・日本の三国仏教流伝史上に名を留めた数多くの仏教者があった。人師・論師と呼ばれるそうした人々は、仏教が至上とする釈尊の正覚に肉迫し、そして分々の悟りを得たのであった。彼等は、各自が主体的に選び取った経典に導かれて、釈尊の正覚に迫っていったのである。そして、自らの分々の悟りを可能にした経典を伝持した。その際、各々が主体的に選び取った経典が、他の経典といかに異なり、いかに優れているかを明らかにするために、それぞれが独自の教判論を打ち立てていったのである。彼等の教判論は、自らの証悟をもたらした経典の優越性を示すための基準・尺度を客観的に示すことが目的である。
教判論で優越性を論証された経典は、その教判を立てた人師・論師達を、分々の悟りに導いた経典であった。各教判論が持つ普遍妥当性、論理的整合性は、その教判を立てた人師・論師の悟りの段階と正比例している。
そこで、中国仏教の教判論で、その代表的なものとして、我々は天台智○(豈偏に頁)が立てた五時八教の教判を知っている。近年、この五時八教が、智○より後に作られたとする説が出されたが、ここでは一往、智○の創説であるとの伝統的解釈に従っておく。
天台智○はこの五時八教の教判によって、中国にもたらされた膨大な経典を見事に整理、体系づけ、法華経こそが諸経中最第一の経典であることを論証したのであった。法華経が釈尊一代の教説のなかで、最高峰に位置するという智○の結論は、五時八教の教判が先にあって、そこから導き出された結論ではない。八万法蔵といわれる仏教経論のなかで、智○自らが法華経に導かれ、法華経に基づいて自らの証悟を得たからこそ、法華経を最第一として位置づけたのである。
天台智○が現れたころ、中国仏教界には、各宗各派が並び存し、教義の蘭菊を競っていた。学派・宗派の成立は、開祖による独自の教判論成立の時とされ、その教判は、各宗所依の経論を最第一とする。開祖の教えに従い、その法系に属する人々もまた、開祖が選び取り、教判論で示された経論に導かれて、自らも証悟を得、更に新しい教判論を立てて自宗を補強し、宣揚していったのである。
天台智○の当時、中国には南三北七といわれる十師がいた。十師はそれぞれ教判を立て、各自が選び取った経論を奉持していた。智○は、この十師と法論対決を行い、ことごとく論破したといわれている。この事実は、十師の教判が、天台智○の五時八教の教判に対して、全く歯が立たなかったことを示すと同時に、十師のそれぞれが得た証悟が、智○のそれと比べてはるかに浅く、しかも普遍性に乏しいものであったことを示している。
南三北七の十師は、智○の証悟の深さ、広さ、普遍性の前に屈したのであった。それはまた、智○が諸経論のなかから選び出した法華経こそ、釈尊の悟りに最も確実に人を導き得る経典であることを示しているのである。
仏教は悟りの宗教である。仏道を実践し、自らも釈尊の悟りを得ようとする者にとって、自らが得た分々の悟りが、果たしてどれほど釈尊のそれに近づいているかを確認することは重大な関心事である。もし、その悟りの段階を正しく把握できなければ、人は増上慢に堕し、悟りの独断に陥ってしまうであろう。あるいは、ひたすらに自己を卑下し、懐疑の中に沈んでしまうかもしれない。諸経論が、仏道修行者の証悟の段階について、詳説するのはこのためなのである。
五時八教の教判で、智○は阿含経典を誘引の教えとして低く位置づけた。それは、阿含経で得られる証悟が、自己の悟りのみを考え、化他の実践を伴わない低い証悟であるとして斥けたのであった。釈尊の成道の様子を伝える仏伝経典には、化他の実践を伴う釈尊の悟りを無上正等覚と表し、等正覚、あるいは正覚と区別して示す場合がある。化他の実践によって仏法が堅立したことからも、これは当然のことといえるであろう。
天台智○の証悟から創出された五時八教の教判は、その後の仏教に大きな影響を与えた。伝教大師最澄が入唐し、天台教学を日本に伝えてから、仏教流伝の舞台は日本に移る。日本仏教においても、五時八教の教判は、何人もこれを打ち破ることができなかったのである。
日本仏教が開花した鎌倉期に現れた日蓮は、法華至上主義に立って、法華経こそ釈尊の正意であり、出世の本懐であることを強く主張した。日蓮はその論証のために、天台の五時八教を縦横に用いたことが知られている。
日蓮の法華至上主義は、天台の五時八教の教判からもたらされた結論ではない。日蓮は「されば我弟子等心みに法華経のごとく身命をおしまず修行して、此度仏法を心みよ」等と述べ、主体を賭した教法の選び取りが、いかに重要であるかを力説している。それは、日蓮自身が法華経の文に導かれ、身命を惜しまず仏道実践に挺身した故の結論である。
その結果、日蓮は天台智○の証悟の深さが、他のいかなる人師・論師のそれよりも卓絶したものであり、智○が選び取った法華経は、人を確実に釈尊の証悟へと導く経典であることを確証したのであった。それだけではない。竜樹や世親、智○や最澄といった仏教流伝史上、重要な位置を占める人師・論師を証悟せしめた究極の成仏法が、法華経の文の底に秘沈しているとして、それを我々に開示したのである。そして、五綱(五義)、五重相対、五重三段などの独自の教判を立てて、それを論証した。なかでも五綱判は、五時八教の教判をも包含する壮大な教判論である。
日蓮の教判は、我々を確実に証悟へ導く究極の法が、法華経寿量品の文底に秘沈されている南無妙法蓮華経であることを説示するためのものであった。日蓮は「今、末法に入ぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし」と述べている。正像末の三時史観の上からしても、白法隠没末法今時においては、もはや法華経すらも、我々の証悟に益なく、ただ南無妙法蓮華経のみが、我々を証悟へ導く法だというのである。ちなみにこの文は、五重相対の第五重・種脱相対を示す文に該当する。
明治維新を迎え、わが国は急速に近代化への道を進む。仏教もその例外ではなかった。
近代仏教学の方法論は、大乗経典のすべてが、釈尊よりもはるか後代の創作であるとしたが、その故に天台の五時八教の教判も、当時の歴史的、社会的制約のもとで成立した時代の産物であって、現在では通用しないという意見も出されるに至った。また、その五時八教を用いて法華至上主義に立つ日蓮の教説もまた、その根拠を失うとするのである。
しかし、こうした見解は、仏教が究極の目的とする証悟を看過した皮相的な見解であり、それは、文献学の方法論に傾斜する近代仏教学の悪しき傾向から生じたものである。本来、仏の悟りは、言語による表現を超え、言語で表すことができないものであった。経典の製作は、言葉を超えたところにある仏の悟りを、あえて言葉で表現しようとする試みである。経典の作者にとって、その経典を読む者を悟りに導くことは、最大の課題であった。言語で表現できない仏の悟りを言説化する作業は、自らも仏の悟りに肉迫し、その悟りの核心を把握した者以外には、全く不可能な作業である。故に、経典は仏陀釈尊の悟り、あるいはそれに極めて近い悟りを得た人々の手によって成ったものなのである。
釈尊入滅後、さまざまな経典が作られていったが、その冒頭には一様に「如是我聞」の文字が置かれている。これは、釈尊の入滅直後に行われたという経典の第一次結集の際、多聞第一の阿難がこのように述べてから、釈尊の教えを暗誦した。それを他の長老達が認可して、経典を作成したというひそみにならっているのである。後世の経典作者は、まさに作者自身のなかに顕現した仏陀釈尊の声を聞いた故に「是くの如く我れ聞きき」と、経典の冒頭に置いたのであった。そして、我が胸中に響く仏陀釈尊の教説を言説化していったのである。故に各経典に説かれた教説間の優劣、浅深は、その経典製作者の証悟の優越性、証悟の深さをそのまま表しているのである。
浅い証悟から創作された経典に導かれても、浅い証悟しか得られないであろう。釈尊の悟りに肉迫せんとすれば、深き証悟からもたらされた経典に導かれることこそ、最も益多き仏道実践なのである。煩瑣に流れ、労多くして益少なき実践は、仏教が目指す証悟を我々から遠くする。ここに証悟実現のための教法選択の基準を示す教判論の重要性が浮かび上がってくるのである。
今、我々に要請されていることは、自らの主体を賭して、自らの証悟のための教法を選び取ることであろう。”仏教学盛んにして仏教廃る”ということが指摘されて久しい。我々は、ここで教判論の意味を再考し、自身の証悟実現に思いを留めたいものである。
(「印度学仏教学研究」第三十四巻第一号 一九八五年十二月)
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