今、音楽を心から愛する人々に、最も注目されている「宇宿允人の世界」は、1982年10月21日にスタートして、演奏会数が50回を超えた。
真実の音楽芸術創造を目指して、どんな大資本の背景も持たず、いかなる思想的意図をも有せず、ただひたすら音楽を愛する芸術家たちの情熱と努力によって、着実なる歩みの足跡が記されてきたのである。聴衆は、幅広い年齢層、職業層を包摂し、熱気に溢れた演奏は、聴く者の魂を揺り動かして、毎回、大きな感動を呼んでいる。
指揮者・宇宿允人のタクトは、オーケストラに君臨することなく、その自主性を尊重しつつ、各人が持つ無限の芸術性を引き出すことに向けられている。宇宿允人は、偉大な音楽芸術の山脈にそびえる作曲家たちが、それぞれ目指した至高・究極の芸術的境地を、我々に示してくれる。それはなにより、宇宿允人がその尊極・至高の境地を強く希求していることと、その希求力と境地の高みが、ただならぬものであることを意味している。
芸術の創造は、人間の本然的な営みである。過去においても、現在においても、そして未来においても。人間が人間である限り、その営みは続けられる。その営みを維持し、発展させていく要因は、芸術における尊極にして至高の境地を希求し、それを目指して自己の生命を飛翔させ、上昇させていこうとする願いである。至高の境地へ肉薄しようとする、やむにやまれぬ願望は、人間に内在する普遍性であり、この希求力こそ、優れた芸術を生み出す本源力である。
”おお友よ、このような調べではない。もっと快い、歓喜に満ちたものを歌おうではないか……”この呼びかけは、至高・尊極の神聖なる境地を希求する偉大な芸術家の、生命飛翔の願望を表している。
芸術における至高・尊極の境地に自己の生命を開き、その境地との融合を希求することから生じる生命のダイナミズムは、生き生きとした諸芸術を生み出す。作品はそうした人間生命が形の上に発現したものであり、作品の完成度は、至高の境地到達に至る生命境涯の段階に相応している。
音楽であれ、美術であれ、我々が優れた芸術作品に触れた時、我が胸中に共感の波動が幾重にも広がり、共鳴の調べに我が胸中の琴線はふるえる。それは、優れた芸術作品として発現された作者自身の生命の希求力が、観る者、聴く者の胸中に発動する故である。芸術作品の一々は、一つの小宇宙を形成している。優れた芸術作品は、清らかな、やすらぎの雰囲気を漂わせている。確かなる存在感と独特の風格を持ち、時を超えて、観る者、聴く者に常に語りかけてくる。
芸術創作の本源力が、人間生命に根ざしたものである故に、国や民族の相違によって、その本質を変えることはない。優れた芸術は、異なった風土に住む人々の心と心をも結び付け、友愛を育てる。至高の境地を希求する生命に内在する普遍性は、時空を超えて、人間と人間の心をつなぐのである。芸術を媒介にして人間と人間が融合、共和した姿には、人類の限りない希望と、確かなる平和の基礎がある。各々の生命と生命との内在的普遍性が共鳴するところ、人間共和の麗しいハーモニーが奏でられ、愛の共同体が形成されていく。芸術に国境はなく、音楽は世界の共通語なのである。
現代は、本物とにせものが混じり合い、本物とにせものの見分けがつきにくい時代である。有名な指揮者であっても、その人が必ずしも優れた音楽芸術を創造しているといえない場合がある。「宇宿允人の世界」が創り出す音楽芸術には、なんびとをも感動せしむる本物の力がある。熱い感動を呼び起こす創造の力がある。フィルハーモニアTokyoの芸術家たちが持つ、至高の境地への希求力と指揮者の希求力は、相乗的にお互いを摩擦し発熱する。その熱気は音楽に新しい生命を与え、作曲家の魂を生々しく蘇生させる。さらに「宇宿允人の世界」の芸術家たちの希求力の総和は、聴く者すべてを巻き込み、ともに至高の境地への上昇を促していく。
演奏が終わり、聴衆と共に、オーケストラの全員に温かいねぎらいの拍手を送る指揮者の姿は、今ここに、共に創出した音楽芸術への感謝と喜びに満ち満ちて、誰人の心にも、爽快・清冽な風が吹き抜け、真正の音楽芸術の真髄にふれた喜びで心が満たされる。“心より出て、再び心へ帰らんことを”のフレーズが、脳裏をよぎる。
(第51、52回「宇宿允人の世界」演奏会プログラム 1993.4.1,2)
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