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プログラム・ノート (2001.7.20)

★ブラームス Johannes Brahms(1833.5.7-1897.4.3)
  悲劇的序曲 作品81 Tragische Ouverture op.81

 1880年、笑う序曲と泣く序曲と呼ばれる「大学祝典序曲」と「悲劇的序曲」が、ほぼ同時期に作られた。笑う序曲は1879年、ドイツのブレスラウ大学から名誉博士の称号を贈られることになり、その返礼として書かれた。同年2月、シューマンの息子・フェリックスが25歳で世を去る。ブラームスはフェリックスの詩才を認め、その詩に音楽をつけたこともあった(op.63-5,6)。1880年1月、親友の画家・フォイヤーバッハが、世に認められないまま淋しく死ぬ。同年5月、ボンでシューマンの記念碑除幕式が行われ、ブラームスはクララ(Clara Schumann 1819.9.13-1896.5.20)と出席している。ブラームスは、シューマン(Robert Alexander Schumann 1810.6.8-1856.7.29)のライン河投身事件と精神病院収容といった悲劇を、改めて思い起こしたに違いない。年来の友人ヨアヒムとの友情にも溝ができていた。人生、悲喜交々、ブラームスはこうした人間感情を巧みに曲に反映させたのである。初演は1880年12月26日。ウィーンのムジークフェラインのホールにおける第6回フィルハーモニー演奏会で、ハンス・リヒターが指揮した。

★交響曲 第1番 ハ短調 作品68 Symphonie Nr.1 C-Moll op.68 

 初演は1876年11月4日。カールスルーエの宮廷劇場で行なわれた。当時、絶対的な権威で君臨していた批評家ハンスリックは「この作品は、現役のいかなる作曲家も持ち合わせていない強靭な意志、思考の論理性、構築的才能の大きさ、それに加えて書法の冴えを物語っている」と絶賛し、ベルリン・フィルの基礎を築いた名指揮者ハンス・フォン・ビューローは「ベートーヴェンの第九に続く第十が現れた」と称えた。
 第4楽章の序奏最後の部分で、おおらかなホルンの旋律が現れる。この旋律は、アルプスにこだまする羊飼いのホルンから採られたものだ。澄み切った青空に吸い込まれていくような、伸びやかなホルンの旋律が静かな余韻を残して終わると、ベートーヴェンの「第九・合唱」の歓喜の主題を思わせる旋律が流れ出る。
 交響曲全体の最も重要な接続点ともいうべきこのホルンの響きは、1868年、クララの48歳の誕生日にブラームスが歌詞を付けて贈った旋律であった。クララは「新鮮なアルプスの旋律に添えた贈り物に、心からお礼を申し上げます」と喜びの返事を書いている。歌詞は「高き山の頂上、深き谷あいよりも、私はあなたに千回ものお祝いのご挨拶をお贈りします」というものだった。最初の交響曲は、クララの面影を胸に抱いて書き上げたものであった。
 1853年9月30日、20歳のブラームスはヨアヒムの紹介状を手にして、デュッセルドルフのシューマン宅を訪れる。比類なき才能を即座に見抜いたシューマンは「新音楽時報」にペンを取り、「新しき道」と題した感動的な文でブラームスをほめ称えた。これによってブラームスの名前は、全ドイツの音楽家たちに広く知られるようになったのである。1854年2月27日、シューマンはライン河に身を投げて自殺を図り、2年半後、エンデニヒの精神病院で46歳の生涯を閉じる。ブラームスが捧げたシューマンの家族に対する献身と、クララへの愛は生涯変わらなかった。
 作曲に着手したのは1855年。第1楽章が完成したのが7年後の1862年。その後、しばらく停滞したが、何度も推敲を重ね、脱稿したのは1876年の9月だった。プランを練り始めてから、なんと21年後に完成したのである。

 [第1楽章]ウン・ポコ・ソステヌート
 [第2楽章]アンダンテ・ソステヌート
 [第3楽章]ウン・ポコ・アレグレット・エ・グラチオーソ
 [第4楽章]アダージョ

★交響曲 第2番 ニ長調 作品73 Symphonie Nr.2 D-dur Op.73

 満を持して世に問うた第1交響曲は、好評をもって迎えられた。1877年6月、ブラームスは避暑のためにペルチャッハへ赴く。アルプス山麓のヴェルター湖の眺めは殊に素晴らしい。美しい自然の大宇宙の中では、人間は一個の小宇宙と化す。こんな環境のもとで書かれた交響曲第2番には、人間的な深みと充実を増したブラームスの内面が、知らず溢れ出している。恩師の妻・クララへの愛の苦悩は、いつも彼の音楽に底流している。作曲は夏の間でほぼ終わり、9月に完成した。初演は同年12月30日、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とハンス・リヒターの指揮で行なわれた。演奏会場は大きな感動に包まれ、第3楽章がアンコールされた。
 ブラームスがウィーンで生涯を閉じたのは1897年であった。膨大な蔵書は、ウィーン楽友協会に収められている。その中に、ブラームスの書き込みが随所にある「Japanische Volksmusik(日本の民族音楽)」がある。編作者はハインリヒ・フォン・ボクレット(1850-1926)で、「宮様」「ひとつとや」「春雨」「六段」「みだれ」の5曲が収録され、表紙には「ウィーン駐在日本帝国公使戸田伯爵閣下に謹んで献呈」と印刷されている。 
 ブラームスは、民謡に作曲の素材を多く求めている。晩年には日本の伝統音楽に興味を持ち、詳しい検討を加えていた。
 戸田氏共 (=うじたか1854-1936)は1887年10月から90年7月まで、駐墺全権公使としてウィーンに駐在している。当時、日本は不平等条約の改正をめざしていた。東京・日比谷に建設(1883年)された鹿鳴館では、毎夜、華やかな舞踏会が催され、戸田伯爵夫人・極子 (=きわこ1857-1936)は、鹿鳴館の花として知られていた。極子は山田流の筝にも堪能であった。戸田はウィーン在任中、条約改正に力を尽くし、公使館では鹿鳴館に倣った夜会を頻繁に催した。公使館での夜会には政界人や外交官のほか、文化人も招かれる。当時ウィーンで最も有名な作曲家であったブラームスが、パーティに招かれたとしても不思議はない。ブラームスは、筝を聴きながら楽譜に異同を記入した。それは「六段」全体と「みだれ」の最初の部分に集中している。(大宮眞琴「音楽のかけ橋」より)
 戸田が駐墺公使に任命される前年の1886年、ブラームスの親友・レーメニーが来日。鹿鳴館で演奏している。当時の新聞には「鹿鳴館において有名なるレメンニー氏、一昨十日の夜に絶技の胡弓(ワイオリン)を鹿鳴館の楼上にて奏した」(明治19年8月12日付 東京日日新聞)とある。ブラームスがレーメニーから、日本の印象を聞いていたとしてもおかしくはない。音楽・文化・芸術は、国や言語、風習や宗教の違いを超えて、人と人との心をつなぐ。

 [第1楽章]アレグロ・ノン・トロッポ
 [第2楽章]アダージョ・ノン・トロッポ
 [第3楽章]アレグレット・グラチオーソ
 [第4楽章]アレグロ・コン・スピリト

(第131回「宇宿允人の世界」演奏会プログラム 2001.07.20)

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