ベートーヴェン唯一の歌劇「フィデリオ」の序曲。「フィデリオ」は、レオノーレとその夫フロレスタンとの熱い夫婦愛がテーマである。勇敢で愛情深く、献身的で知性的な主人公レオノーレは、ベートーヴェンが理想とする女性像であり、邪悪な権力を憎み、正義と友愛を謳いあげるこのオペラに、ベートーヴェンは9年間も推敲を続け、3曲の序曲を作った。なかでも第3番はスケールが大きく、構成が緊密で、幕間に演奏されることが多い。
第7番とほぼ同時期に作曲された。初演は1814年2月27日、ベートーヴェン自身の指揮で。ロマン・ロラン(1866-1944)は、7番と8番の二つの交響曲には“夢中な陽気さと熱狂、気分の突如たる対照、錯雑する大規模な電光のような思いつきと巨人的な爆発がある”と言っている。
この二つの交響曲創作の背景に、何があったのか。
ナポレオンがロシア遠征をした1812年の夏、ベートーヴェンは前年に引き続いてボヘミアの温泉保養地テープリッツにでかけた。その頃、ベートーヴェンは、燃え上がる恋の炎に翻弄され、めくるめく陶酔に我を忘れて、一人の女性に夢中になっていた。その名はアントーニエ・ブレンターノ(1780-1869)。
このひと夏の忘れえぬ出来事に“不滅の恋人”アントーニエとの密会と、文豪ゲーテ(1749-1832)との語らいがあった。
7月19日、ベートーヴェンはゲーテと対面する。アントーニエの義理の妹ベッテーナのお膳立てであった。景勝地ビリンでの散歩の帰り道、ふたりはルードルフ大公一家と出くわす。
ゲーテはベートーヴェンの腕を離して道の脇へ退いた。ベートーヴェンは帽子をしっかりとかぶり、フロックコートのボタンをはめ、両腕を背中に組んで人々の真中を進んでいった。君侯と侍臣たちは列を作って並び、ルードルフ大公はベートーヴェンに向かって帽子を取り、大公妃もベートーヴェンより先に挨拶をした。ゲーテは一行が通り過ぎていくとき、帽子を脱ぎ、低く腰をかがめて脇のほうに立っていた。
ベートーヴェンは“芸術は俗世の権威に膝を屈してはならない”と、ゲーテの態度を非難する。これから後、二人の間柄は極端に悪くなったという。
第2楽章のリズムを刻むような主題は、メトロノームの音を連想させる。メトロノームは、ヨーハン・ネーポムーク・メルツェル(1772-1838)が改良したもので、その頃、作曲家たちはこぞって重用した。その弟レオナルト・メルツェル(1783-1855)は、ベートーヴェンが使った長い管のあるラッパ型の補聴器を作ったことで知られている。
初演は1813年12月8日。ウィーン大学講堂で行われた戦争傷病兵のための慈善演奏会でベートーヴェンが指揮した。
曲全体が生き生きとした明るさに満ち、リズムが明快で、人々の心を浮き立たせる。特にこの第7番はリズムの要素が強調される点で、九つのシンフォニーの中で異彩を放っている。全曲を貫く律動的な運動性、生命力あふれたリズム、運命を足蹴にするような強烈なエネルギーの爆発がこの曲の魅力である。
ワーグナー(1813-1883)は「このシンフォニーは舞踊そのものの聖化である。最高の形式による踊りであり、音をもって理想化した最も聖なる運動の権化である」と絶賛した。この曲を聴き、酔っ払いの作品だと陰口をたたいた者に対して、ベートーヴェンは「私は人類のために精妙な葡萄酒を醸すバッカス(酒神)であり、精神の神々しい酔い心地を人々に与える者はこの私だ」と切り返したという。
1812年夏、ベートーヴェンはウィーンを出てテープリッツにいた。この夏、不滅の恋人アントーニエと密会する。「不滅の恋人よ」と呼びかける有名な恋文は、7月6日と7日付けになっている。
ベッテーナ・ブレンターノの兄フランツ(1765-1844)と、その妻アントーニエとの交際は、二、三年前から始まっていた。ベートーヴェンは、1810年頃から病の床に臥しがちなアントーニエをしばしば見舞い、隣室からピアノを弾いて慰めることも少なくなかったという。
慰めの気持ちが同情に、同情が愛情に、それがいつしか相思相愛の熱愛にまで発展するのに、それほど時間はかからなかった。しかし相手は人妻。禁じられ、秘められた恋は、いやがうえにも激しく燃え上がる。狂おしい密会のあと「不滅の恋人」に手紙が書かれた。だが、ベートーヴェンの机の奥深くにしまいこまれた手紙に返事がくるはずはなく、アントーニエに永遠の愛を誓いながらも、自らに拒絶の返信を送ったベートーヴェンは、心に大きな傷を負った。第2楽章アレグレットには、恋にときめき、切なき恋ゆえの苦衷と、人妻を恋うる結果の悲劇性を予測したベートーヴェンの心の動きが見て取れる。
結婚の夢ついえたベートーヴェンは、早くも42歳になっていた。それから四年あまり、創作が途絶えた原因のひとつに、この失恋があることは確かである。
(第127回「宇宿允人の世界」演奏会プログラム 2001.02.23)
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