22歳のロッシーニが、わずか2週間で書き上げた17番目のオペラで、イタリア・オペラの代表傑作である。原作はフランスの作家ボーマルシェが書いた「フィガロの結婚」の前編にあたる。
ローマのアルジェンティナ劇場の初演(1816.2.20)では、観客席から猛烈な野次が飛び、劇が進むにつれて口笛、足踏み、怒号が激しくなった。大混乱になった劇場をひそかに抜け出たロッシーニは、それでもその夜は熟睡したという。
イタリアの空のように明るく、心浮き立つような楽しい序曲となっている。
ファリャは、20世紀前半、パリを中心に活躍したスペインの作曲家。アンダルシア地方の民俗音楽の特色を、ヨーロッパの音楽様式と見事に結合させ、きらびやかで独特の魅力ある世界を作り上げた。
初演は1919年7月、ロンドンのアルハンブラ劇場で行われ、大成功をおさめる。出演者は当時の最高メンバーで、なかでも舞台装置と衣装はパブロ・ピカソが受け持つという豪華なものであった。指揮はエルネスト・アンセルメ。
初演の日、ファリャは母危篤の知らせを受けて急遽ロンドンを離れ、その様子を目にできなかった。その後、華やかな社交界を捨ててグラナダに移り住む。彼は子供の頃から虚弱であった。スペインの内乱が終わった1939年、アルゼンチンのブエノスアイレスに渡り、7年後、そこで没する。
バレエは二部から成り、権力と権威のシンボルである三角帽子をかぶり、威張り散らしている好色代官が、粉ひきの美しい女房に横恋慕。代官は何とかものにしょうとするが、愛敬たっぷりでも、芯はしっかりしている女房は決してなびかず、代官は散々な目に遭ってしまうという物語。今回は第二部の「近所の人たちの踊り(The Neighbours' Dance)」「粉屋の踊り(The Miller's Dance)」「終幕の踊り(Final Dance)」が演奏される。
権力は腐敗する。いかなる権力も必ず腐敗する。
あくなき権力欲の権化と化し、偏狭憎悪の哲学に毒された男は、多くの芸術家の魂と自由を圧殺し、数百万人にのぼる貴い人命を粛清の名のもとに抹殺した。そう、彼の名はスターリン。
あやうく彼の手にかかり、銃殺あるいは死の強制収容所送りにされかけたショスタコーヴィチは、後に彼のことを犯罪者、狂人、死刑執行人、蜘蛛(クモ)と呼んでいる。
ショスタコーヴィチの芸術家としての旅立ちは、ばら色に輝いていた。1924年、彼が18歳の時、ペトログラード音楽院卒業作品として作曲した「交響曲第1番」は、ソヴィエト国内のみならず西欧各地で注目され、彼の名は一躍世界の楽壇に知れわたる。1927年のショパン・コンクールでは二位に入賞。歌劇、交響曲、バレエ音楽を次々と発表。映画音楽にも天才を証明した。
1936年6月、彼の歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」が、ソヴィエト共産党機関紙「プラウダ」紙上で批判される。同じくバレエ音楽「明るい小川」も、政府当局から厳しい批判を受ける。時あたかも、多くの著名な作家、詩人、芸術家たちが収容所に送られ、秘密裁判による政治犯の処刑が、数百万に達していた頃であった。
権力の魔の手は、ひたひたとショスタコーヴィチの身に迫っていた。芸術は、政治の前に膝を屈せざるをえないのか。芸術は、狂った独裁者に奉仕しなければならないのか。魂の自由はいかにして守り抜かれるべきなのか。ショスタコーヴィチの苦悩は、際限なく深まりを見せていく。創造の翼を無限に広げ、高貴なる精神世界の彼方へ大きく飛翔しゆく芸術家の魂は、残虐な独裁政治から従属を強制されたり、不当な拘束を受けるようなことがあってはならない。ショスタコーヴィチは、すさまじいばかりの内面的苦闘を続け、遂に「交響曲第5番」を完成させる。
この曲は“苦悩、克服、歓喜”といった構造を持ち、最後は勝利の行進曲で終わっている。けれども、いかに表面上は勇壮で華やかに見えたとしても、その内面に脈々と流れるのは圧政に対する激しい怒りであり、芸術家のやり場のない悲しみと、体制からの芸術批判に対する逆批判である。ショスタコーヴィチは、制約された枠の中で、権力に対する果敢なる抵抗の思いを込めて、魂の自由を謳い上げたのであった。
“暗黒から光明へ”というベートーヴェン的なテーマは、芸術家の魂が、今たとえ邪悪な権力に圧迫されていたとしても、どこまでも自由であり、真の芸術はやがて人間勝利の歓喜と輝きを招くことを暗示する。
初演は1937年11月21日、エウゲニー・ムラヴィンスキーの指揮でレニングラード・フィルが演奏した。その日がソヴィエト革命20周年記念日であったことから、この曲は別名「革命交響曲」と呼ばれている。だが、ショスタコーヴィチが真に意図する「革命」とは、スターリンの社会主義独裁体制から魂を解き放つ、自由への革命なのであった。勇壮で華やかな終楽章で到達するところは、輝かしい社会主義国家ではなく、希望に満ちた本当の自由と人類愛を謳歌する誇らしげな芸術世界の勝利である。
スターリンの独裁体制の下で、本心を明かしたり、不用意な発言をしたために密告され、非業の最後を遂げた何百万の人々がいた。芸術家もその例外ではなかった。ショスタコーヴィチは、彼の交響曲が、そうして亡くなった人々の墓碑であると言っている。
「交響曲第5番」の大成功によって、彼は再び名声とソ連当局の信頼を回復した。政府が「改悛の情が顕著である」と認めたわけである。ああ、なんという愚昧なる国家権力!
1975年8月9日、今世紀最大の作曲家・ショスタコーヴィチは、病院の一室で静かに目を閉じたのであった。
(第126回「宇宿允人の世界」演奏会プログラム 2000.11.08)
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