オペラ「魔笛」の序曲。「魔笛」は1791年9月30日、ウィーン・フライハウス劇場で初演。台本は、モーツァルトのかねてからの友人であり、フリーメイスンの仲間でもあったエマヌエル・シカネーダーがドイツ語で書いた。歌とせりふで構成される大衆的なジングシュピール(歌芝居)は、当時、ウィーンで大流行していた。冒頭から、フリーメイスン入会儀式の際の扉を叩く音が三つの和音で繰り返される。
1791年7月、曲の大部分が出来上がり、あとは序曲を残すのみとなった頃、「灰色の服を着た男」がモーツァルトを訪ねてくる。妻のための「レクイエム」を作曲してほしいというのである。「魔笛」の作業は一時中断する。なぜか不吉な思いにとらわれたモーツァルトは、「レクイエム」が自分のためのものであるとの思いにとらわれ、自らの死を予感する。
「皇帝ティトゥス」上演のために赴いたプラハからウィーンに戻ったあと、9月28日に「魔笛」は完成。初演はモーツァルトが指揮。シカネーダーがパパゲーノを歌い、モーツァルトの義妹ヨゼファ・ホーファーが夜の女王を歌った。初日はそれほどではなかったが、日を追うごとに人気が上昇。モーツァルトの死後も上演されるロングランとなった。
初演から約二ヶ月後の12月5日午前0時55分、モーツァルトは「魔笛」の一節を口ずさみながら死を迎える。
ヴィオラのさざ波の上に、ヴァイオリンが歌い出す第一主題は、この交響曲全体の象徴である。序奏を伴わずにいきなり現れて、聴く者の心を強く捉える。トスカニーニは、演奏に際して絹のハンカチをひらひらと落とし、このように演奏するようにと、楽団員に指示したという。
短い35年の生涯を、駆け抜けるようにして逝ったモーツァルトが、世を去る三年前に書き上げた三つの交響曲は、第39番が1788年6月26日、40番が7月25日、41番が8月10日にできあがっている。それぞれが異なった曲想で書かれ、これほど見事な、これほど素晴らしい、人類にとって未来永劫の至宝をわずか一ヶ月半で作ったことは驚きである。まさに音楽の神がこの世に遣わした天才のみがなしうることであろう。
シューベルトは「この曲からは天使の声が聞こえる」と、目に涙をいっぱいためて聴き入ったという。シューベルトならずとも、第一楽章の冒頭で奏される第一主題の悲哀の旋律を聴けば、木石のごとき心を持つ者も胸打たれるに違いない。たったこの一節の旋律しか書かなかったとしても、彼の名は音楽史の片隅に留められたに違いない。
荒みの度を加速し、ますます混迷の様相を深める調子はずれの現代社会。哲人プラトンは「音楽が変われば社会全般が変わる」と言った。より高き自己を探求する謙虚さと素直さ、思索と哲学、そして祈り……これらが欠如した音楽芸術は、たとえいかにもてはやされようとも、所詮、虚飾であり、にせものである。我々の魂を豊かにしてくれないし、社会も変わらない。
こんな時代だからこそ、モーツァルトを聴いて魂の調律をしていきたいものだ。モーツァルトの音楽には、神々しい宇宙生命の息吹きがあり、晴れやかで清らかな、心洗われるリズムとハーモニーが満ちあふれている。
1841年6月から9月にかけて作曲。初演のプログラムでは「第2番」となっていた。曲は予想に反して聴衆の受けが悪く、評価もいまいちであった。
初演から十年後の51年、主に金管部分が改められ、53年12月に「第4番」として出版される。各楽章が連続して演奏されるスタイルがとられ、「交響的幻想曲」という表題が付いていた。
シューマンの作品は、断片的なものが寄り合い、その中に一つの調和が作り上げられているものが多い。彼の魂のささやきは、いつも外からの刺激によって生ずるものであった。その日その日のできごとが、彼の心に陰影を描き、彼の感受性はその光と影をいっそうこまやかに拡大していくのである。
シューマンは、1833年に発刊した「音楽新報」によって、既に音楽ジャーナリズムに確たる地歩を築いていた。彼は評論と作曲の領域で、名声と経済的安定を獲得していたのである。
1835から38年にかけて、熱愛するクララとの結婚に反対するクララの父フリードリヒ・ヴィークとの確執があった。39年6月には、父親の不当な措置を法廷に持ち出したが、クララの母・マリアンネの援助と、リストを初め、友人たちの理解ある証言で、40年3月、結婚の許可がおりた。しかしこの軋轢は、シューマンの精神を危機的状況にまで深めていったのである。
ピアノ曲と歌曲の分野に、独創的世界を開拓したロマン主義作曲家として高い評価を受け、オラトリオ「楽園とペリ」の大成功で、作曲家としての名声も決定的にする。しかし、この成功により、次の課題であるオペラの作曲が、彼にとって大きなプレッシャーとなった。
45年には「極度の憂鬱状態。脳を使うと直ちに悪寒、戦慄、足部の冷却、苦痛、死に対する異常な恐怖を伴う」という医師の報告が出ている。
54年の初め頃から健康が悪化。2月26日に精神病院に入院。27日、最後の変奏曲を浄書したあと、冷たいライン河に身を投ずる。運よく助けられて、ボン郊外のエンデニヒの精神病院いに収容された。その後、2年あまり静かな療養生活を続けたが、1856年7月29日午後4時、愛妻クララと愛弟子ブラームスに看取られて、46歳の若さでこの世を去るのである。
(第125回「宇宿允人の世界」演奏会プログラム 2000.09.16)
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