この曲は、ドヴォルザークが滞米中の1893年5月24日にできあがった。即興的といってよいほどのスピードで作曲が進み、標題は彼が付けた。新世界とはアメリカ大陸のことである。
同年12月16日、アントン・ザイドル指揮のニューヨーク・フィルがカーネギーホールで初演。熱狂的な評判を呼び、続くボストンでの公演も大成功のうちに終わった。
曲は、アメリカインディアンのメロディーを思わせる新しい主題が次々に現れ、太鼓のリズムが多く、構成は単純でハーモニーは簡潔である。彼は、初演のあとNYヘラルド紙が「インディアンのメロディーを引用した曲だ」と書いたことに強く抗議して、この曲はアメリカ精神で作曲したオリジナルであり、インディアンのメロディーそのものではないと反論している。
曲が完成する直前の5月21日、彼は同ヘラルド紙にコメントを寄せ、黒人霊歌は白人と黒人の歌の混血であり、アメリカの新しい音楽はこの上に築き上げられるべきだと明言した。彼は、アフリカから移されてきた黒人や、アメリカ大陸の原住民であるインディアンが持つ文化的財産が、これから勃興すべきアメリカ音楽の宝庫であることを直感したのである。
「もし私が、アメリカインディアンや黒人の歌を聴いていなければ、この曲は生まれていなかっただろう」……初演の何日も前から連日のように繰り返される新聞のインタビューに、彼はこう答えている。現在とはくらべものにならないほど人種差別がひどかった当時、このドヴォルザークの発言は、ヨーロッパ出身の者の目には常軌を逸したものと映ったに違いない。しかし、彼のその姿勢は、彼が貧しい肉屋の息子として生まれ、若き日にプラハのドイツ人貴族から振り向きもされなかった貧乏庶民の体験と、これまでの人生でなめてきた辛苦の数々からもたらされた。
社会から抑圧されている人々の側に立つという彼のこのような立場は、アメリカに来てから初めて明かされたものではなかった。三十代の終わりごろに作曲した「三つの近代ギリシャの歌」のなかでは、ギリシャを支配したトルコ人を告発。歌曲「ジプシーの旋律」では、流浪の民として、不当に社会の最下層の地位におとしめられているジプシーたちの名誉回復を願う彼の心遣いが、叙情味あふれる歌からにじみでている。
彼は「真の芸術家というのは、庶民大衆の人たちの生活のすぐ近くに自分を置いて、彼らのために創造する人である」との信念を持っていた。彼は、同時代の誰にも負けない芸術家になったあとも、自らの貧しい出身を恥じたり、隠したりすることはなかった。逆に、常に自分を民衆と同じレベルに位置づけ、決して傲慢にならず、彼が作る音楽は、独自の強い個性に満ちていながら、だれが聴いても理解できるわかりやすい語法で作曲されている。
だからこそ彼の音楽からは、誰もが心に抱く故郷への思いや、おだやかな日常の生活からもたらされる清らかで純粋な喜び、あるいは虚しい表面的成功の裏に隠された人生の苦衷といったものが、聴く者の心に迫ってくるのである。
1868年6月21日、ミュンヘンでの初演は大好評で迎えられた。脱稿から初演までの期間は、彼の諸作品中では異例の早さであった。この作品の特徴は、題材が、これまでワーグナーが好んで用いた神話的題材でなく、実生活に基づいた、けたはずれに楽しい喜劇であることである。中世ドイツで盛んだったマイスタージンガー(手工業を本職とする詩人兼音楽家で、ニュルンベルク地方に多くいた)たちの生活を、面白おかしく描いている。
前奏曲は、劇の内容を暗示したもので、明るい「親方歌手の動機」から始まる。続いて「愛の思い出の動機」がヴァイオリンで歌われ「親方歌手の行進」が力強く堂々と現れる。それは管楽器でファンファーレ風に奏され、あたかも巨人の歩みを思わせる。ほかにも「情熱の動機」や「嘲笑の動機」などが次々と現れ、健康でユーモラスな気分をかきたてながら力強く終わる。
オペラ「カルメン」は、ビゼーの代表作であるだけでなく、フランス・オペラの最高傑作である。メリメの小説をもとに、ビゼーの友人であるアレヴィとメイヤックが台本を書いた。
1875年3月3日、パリのオペラ・コミーク座で初演された時は、必ずしも手放しの成功とはいえなかった。初演から3ヶ月たった6月3日、ビゼーは36歳で生涯を終える。上演が不評で、それを落胆して死んだのではないかという噂もあった。
組曲はこのオペラ「カルメン」全曲の中から、数曲を選んで管弦楽曲に編曲したものである。普通は第一組曲が4曲、第二組曲が2曲で成っている。
(第2回
セレモアつくばチャリティコンサート
「宇宿允人の世界」演奏会プログラム 2000.7.23)
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