人間が音を楽しむ最初は、張られた一本の弦をはじいたり、たたいたりすることからも始まった。弦をはじいたり、たたいたりすることは、いわば人間の“太古からのしぐさ”である。ピアノのルーツもそこにあり、“太古からのしぐさ”が長い年月を経て巨大な楽器・ピアノに結実していく。
世界の各民族が持つ民族楽器を概観すると、共通の発音原理に基づく多くの楽器を見ることができる。弦をはじくこと、たたくことを発音原理とする楽器は、チター属、ハープ属、リュート属に分類されている。
「心の琴線に触れる」という言葉がある。世界の各民族が持つ撥弦楽器の存在は、心の琴線に触れることが、人類の普遍的な心の共通項であることを教えてくれる。
これは民族を超え、国境を超えて、人々の心の琴線をふるわせ、共鳴させる温かくて尊い財産を、人類が共有しているということである。
人類が共に楽しみ、共に感動し、互いの心の琴線の共鳴を媒介するものこそ音楽である。
各民族が同じように持っている楽器が、ピアノにまで発達を遂げたのは、西欧諸国においてであり、キリスト教文化圏でのことであった。
イスラム教、仏教の文化圏である東洋において、ピアノが発達しなかったのは、東洋の国々では、ピアノのような楽器を必要としなかったということである。
では、なぜピアノはキリスト教文化圏だけで成立し、発達をとげたのであろうか。
イギリスに起こった産業革命は、工業製品の大量製造を可能にし、大がかりな楽器製造をも可能にした。人間の行動と発想には、必ず思想的背景がある。
聖書の創世記には、神がその姿に似せて人間を造り、他の全ての生き物は、人間に支配、従属させるべきものだと説いている。自然は克服の対象であり、音も人工的に作り出し、管理すべきものとされている。聖書における教説は、その後の文化と社会を規定し、多大なる影響を与えてきた。
キリスト教の影響下にある西欧文化の特徴は、なべて構築への意志に支えられている。ピアノの発達も、この構築への意志によって促されたと見てよい。音楽も、例えばベートーヴェンの音楽は、壮大な論理によって築き上げられた大きな建造物のようなものである。
これに対して東洋では、例えば自然は「山川草木悉有仏性」と捉えられ、人間は自然・宇宙との同化、一体化を希求する。融和、一体化への意志である。
音楽もエンドレスにその特徴を見い出すことができる。ベートーヴェンの方法をポジティェなものとすれば、東洋の音楽はネガティェなものである。
イスラムの教説には、仏教に極めて近いものがある。イスラム教の教説には、精神と物質が対立するものであるとか、上下の関係で二元的に捉えるというアスペクトが存在しない。
キリスト教の世界観では、存在界を精神性と物質性の縦割り構造で垂直的に区分する。イスラム教の主要概念である「タウヒード」は、あらゆる存在者の内に、精神性と物質性の両者が等しく分有されていると理解し、世界はあくまでも水平的に捉えられている。
個々の存在に、本性、形状、能力等にさまざまな差異があっても、それは基本的な優劣に関する事柄ではないとする。人間は他の存在と比べ、より多くの能力を授けられているが故に、世界の調和と維持に対して、より多くの責務を課せられていると説くのである。
このように、聖なるものの二元的把握を拒否し、人間の優越性を否定する世界観は、全てを関係性で捉えるところに立脚している。個は個そのものとして独自に自存するものではなく、他者との関係において明確な対称性を示すことが期待されており、それは共同体、自然に対する関係にまで敷衍されている。
こうしたイスラムの根幹をなす教説は、仏教の縁起思想と軌を一にする部分が多い。
巨大な楽器の王・ピアノがヨーロッパ・キリスト教文化圏に発達し、イスラム教圏、仏教圏に未発達である理由は、思想、宗教的観点からも求めることができるのではないか。
21世紀は西洋と東洋が互いに歩み寄り、協調すべき時代であり、共存、共生がキーワードとなるべき世紀である。人々の心をつなぎ、相互理解を推進する文化・芸術の果たす役割が、いや増して大なることを思う。
イスラム教と仏教とが思想的に補完し合い、共生・協調の道が開かれ、新たなる世界精神、世界の指導原理が生み出されていく……。ピアノの音色に耳を傾けていると、そんな夢想が脳裏をよぎる。
クルト・ザックスは「楽器の歴史は、より高度な音楽達成を目的とした技術的な改良ではなく、人間精神の進化の姿である」と言っている。ピアノ発達の跡をたどることは、まさに人間精神の進化の姿をたどることであると思われる。
(1999.6.12 於:民音文化センター栄光ホール)
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