会社の西北約3粁に宿河原があり、ここに郡山本陣がある。正門を入った左手に椿の大樹があって、毎年、美事な花を咲かせたので椿の本陣と呼ぶようになった。この本陣とは、戦闘隊の指令所と云う意味でなく、大名等が泊った宿屋のことである。
江戸時代に発達した街道の宿場は、全国に数百ヵ所あったが、徳川幕府の倒壊によってほとんど姿を消した。この椿本陣は、往時のままの姿を多く保存している貴重なもので、文部省第一類の史跡に指定されている。
昔、京都から伏見を経て、大阪に至る大坂街道がある。この街道を伏見から分かれ、淀川を渡り、北摂の山麓を通り、西宮に出て山陽道に入る。これが西国街道で、この間の宿駅は東より山崎、芥川、郡山、瀬川、昆陽(こや)の五ヵ所あり、なかでも郡山駅は中間に位置して人馬の往来繁く、旅宿がズラリ並んでいた。その中に、参勤交代の大名らが泊ったのが郡山本陣である。
この本陣は梶氏といい、代々本陣をしていた。享保3年、火災のため類焼したので、現在のものは同6年再建された建坪208坪の広大なものである。明治3年に本陣職はやめられたが、元禄年間以後の古記録や宿札等が多く残っており、有名な播州赤穂の浅野候が、毎年泊られた宿札もある。明治天皇が東宮のとき、ここに泊られたこともある。
徳川三代将軍家光は、寛永13年、武家諸法度を発布し、参勤交代を規定した。参勤とは大名諸侯が江戸城に伺候在勤することで、交代とは江戸より自分の領国へ帰ることである。多くの大名諸侯が大勢の従者をつれて、長の道中をしたので宿駅は非常な発達をとげた。 街道の宿駅はおおむね10粁間隔に置かれ、旅宿は本陣、脇本陣、旅篭(はたご)に大別された。中でも本陣は門、玄関、番所、槍の間、御継の間、上段の間等を設け、土地の名門や豪家がこれにあたった。中国、四国、九州の大名は、しばしばここに泊っている。
大名が泊るときは、宿泊の何ヵ月か前に設営の役人が来て、本陣と打ち合せをし、宿泊の前後各十日間を「何々候御掛ヶ日」と称して表に掲示し、その期間中は、他の大名から申し込みがあっても泊めなかった。この御掛ヶ日は、後年かなり短縮されたが、それでも一ヶ月に一、二回の宿泊しか出来なかった。現在の高級ホテルのように、毎日、宿泊者があるのとは相当な違いである。
宿泊する大名は、いわゆる大名行列でやってくる。人数はそれぞれの勢力によって違ったが、幕府が規定したものは別表の通りである。特に人足の多いのは、日用品や食料、食膳、まん幕、寝具、鍋釜、風呂桶まで持ち歩いたためである。時には、犬や猫まで何匹も連れていた殿様もあった。殿様の便所には便池がなく、三宝に砂を入れて置いた。使用後は毎回棄てたという。そんな三宝や砂まで持ち歩いたわけである。
本陣には大名と家老、用人、料理人等が泊まり、その他の武士や人足は、近くに分宿したので、宿舎は五十数軒にも及ぶことがあった。そのために、大勢の人足や雲助が夜更けまで騒いだのだろう、誰がよんだのか「春雨の淋しさもなし郡山」と云う落書の句が、いまも本陣に残っているので当時の賑やかさがうかがえる。
かくも繁栄をきわめた宿場町も、明治に入るや鉄道の発達によつて、旧街道は廃れていき、単なる農村の一集落になってしまった。そしてこの間に止むを得ぬ事情や、心ない人々によって、幾多の旧跡が壌された。その後、世の中が落ちつくにつれ、公共団体や観光開発団体が文化財の保護にのり出したが、椿本陣も史跡に指定されたものの、今後の維持保存には困難もあろう。しかし、いつまでも残しておきたいものである。
(ツバサ工業(株) 社内報『ツバサパイロット』1964.12.25)
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