茨木市は、昭和23年市制を布き、現在では東西約5km、南北約15km、面積約78平方km、人口10万余の中都市として、目ざましい発展を続けている。
西の丘陵地帯から北の山地にかけては、弥生式土器時代に、既に文化が開けていたらしく、現在までにいろいろの土器や、刀剣、やじり等の遺物が多く発見されており、大規模な古墳群がある。
約2700年前、茨木地方に三島溝咋耳命(みしまみぞくいみみのみこと)がいて、大きな勢力をもっていた。神武天皇が大和に入られて皇后に定められたのが五十鈴媛(いすずひめ)で、この媛は三島溝咋耳命の孫であり、大和と茨木は古くから文化の交流があったと思われる。
当時の人々には、眼下に開ける大平野、そこには淀川や安威川や多くの河川があり、魚貝の漁もでき、山には兎猪鹿等の鳥獣が多く、狩もでき、沃野で農耕にも適し、住むのに恵まれた土地であった。河川は堤防もなく、蛇行して深く、流れもゆるやかで、舟が安威・福井まで上っていったそうである。大きな野原もあり、此の野原には荊(いばら)が生い茂っていて、これを切開いて部落をつくったため、荊切(いばらきり)の地名が生れ、荊木(いばらき)となり、約750年前の正治年間、坂上田村麿呂が現在の『茨木』にしたという。
京都と浪速の中間にあって、西国路の要路であった関係上、大きな郷もあって、多くの豪族が住んでいた。戦国時代には、しばしば戦場となって、戦乱に明け暮れ、度々の兵火に文献を焼失してしまったようである。
約600年前の建武年間、摂津・河内・和泉三ヶ国の守護職になった楠木正成が、茨木城を築いたといわれ、その後、城主は赤松範資(のりすけ)、佐々木秀詮(ひでのり)、太田頼基、細川頼之、茨木佐渡守、栗木新五郎、中川清秀、安威了左(よしすけ)、川尻肥前守、片桐且元と、転々と変わった。且元の所領は6万石といわれたが、豊臣氏が亡んで後、江戸幕府の直轄地となって、代官・間宮三良右衛門が此の城にあったが、数年後の元和3年、廃城となって取りこわされた。近くには太田・安威・福井・佐保・郡山・三宅の各城があったが、いずれも城とはいっても、大阪城や姫路城のようなものではなく、大きな屋敷か砦のようなものであった。
その後 天領や、時には大小名の知行地となり、明治を迎え、同9年 鉄道が大阪・京都間に開通し、茨木発展の基礎が築かれた。広い田畑の中に ぽつんと茨木駅が建ったのである。当時の茨木は、茨木川の東側にあり、高槻村や吹田村を含めた北摂地方の行政教育産業の中心地であった。昭和3年には、今の阪急京都線が開通し、茨木町駅が営業を始め、追々、工場や住宅が増加し、現在に至ったのである。
(ツバサ工業(株) 社内報『ツバサパイロット』1964.6.10)
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