【総持寺村】
平安時代の初め、藤原鎌足の後裔・藤原越前守高房は太宰大弐(1)となり、妻子・従者を連れて任地へ向かった。途中、茨木穂積(2)の橋辺で漁民が大きな亀を捕えて殺そうとしているのを見て、高房は哀れに思い、漁民から買い求めて川へ逃してやった(3)。亀は高房に向かって幾度も頭を振りながら水中に姿を消していった。一行は尼崎の大物の浦(4)で便船を求めて西海に下った。
高房には七男七女(しちなんしちじょ)の子があり、そのなかでも三歳の男の子が特に眉目秀麗(びもくしゅうれい)であって、高房は
この稚児(ちご)を掌中の玉(しょうちゅうのぎょく)のように可愛がっていた。けれども高房には、この稚児を憎々(にくにく)しげに思う一人の側室(そくしつ)がいた。その側室は懐妊(かいにん)しており、やがて生まれてくる自分の子のためにも稚児が邪魔(じゃま)だった。見かけは稚児を異常なほど可愛がっていたが、実は一人の腹心(ふくしん)の女中(じょちゅう)に意を含めて殺そうとしていたのである。まさに外面如菩薩(げめんにょぼさつ)、内心如夜叉(ないしんにょやしゃ)であった。
ある日、夜のとばりが島影をつつむころ。女中は稚児を抱えて船端(ふなはし)に寄り、小用(しょうよう)をさせるとみせかけて
わざと手をすべらせて稚児を海中に落とし、大声で泣きわめいた。これを聞いた側室も共に泣き叫んだ。高房は嘆(なげ)き悲しみ、すぐに停船を命じて従者や舟子(ふなこ)等と夜(よ)を徹(てっ)して行方(ゆくえ)を探したが、稚児は見つからなかった。
明け方、船端に立ちつくしている人々の眼に、ポツンと海上に浮かぶものが映った。橋辺で助けた亀が稚児を背に乗せて船に向かって来たのである。さっそく助けあげ、元気な我が子の姿を見た高房の喜びは
たとえようがなかった。
その夜、高房の夢枕(ゆめまくら)に稚児を救った亀が現われた。亀は、大物の浦から報恩(ほうおん)のため船について来たといい、側室には心を許すなと告げて姿を消した。
太宰府に腰を落ちつけた高房は、あの亀を観世音(かんぜおん=観音=かんのん)の化身だと信じて、霊像(れいぞう)を作ろうと思いたった。ちょうど来日していた唐(とう=中国)の人僑(じんきょう(5))に砂金(さきん)千両を与えて、唐の清涼(せいりょう)山の香木(こうぼく)を求めるよう命じた。人僑は唐に帰って香木を送ろうとしたが、国外搬出(はんしゅつ)が許されなかったので、仕方なく「日本の藤原越前守に寄せる」と香木に文字を刻(きざ)んで東の海に流し、高房に報(むく)わんとした。
年は流れ、高房の子・山陰政朝(やまかげのまさとも)が成人して中納言(ちゅうなごん(6))になり、なくなった父のあとを継ぎ太宰師(だざいのそつ)に任ぜられ、鎮西(ちんぜい)に赴任(ふにん)した。
ある日、国内を巡視していた政朝は、海辺で一本の浮木(ふぼく)を発見した。念入りに調べると「日本の藤原越前守に寄せる」と読みとれる刻字(こくじ)があったので、奇異(きい)に感じ、側近の者に邸館(ていかん)に持ち帰らせた。
それから数年の後、政朝は任期を終えて京に帰ることになった。一行は茨木の辺りまで来て、京も間近ということで暫(しばら)く森影で休息した。さて出立(しゅったつ)というときに、携(たずさ)えてきた香木が
まるで根が生えたように動かない。政朝は途方(とほう)にくれたが、ふと
この地は有縁(うえん)の地であると気づき、一行に向かい「ここに伽藍(がらん)を建立(こんりゅう)することにしよう」と言うと、急に香木が軽くなった。
京に帰った政朝は、名工(めいこう)を探すべく大和(やまと)の長谷寺(はせでら・ちょうこくじ)に籠(こ)もって祈願(きがん)した。ある夜、夢枕に「明日の朝、下山(げざん)のとき最初に出会う者が名工である」と告げられた。翌朝下山すると、ぼろを着た
みすぼらしい童子(どうじ)が往来(おうらい)をやって来る。この童子を連れ帰り観音像を彫刻(ちょうこく)させてみたところ、一昼夜(いっちゅうや)で十一面大士(じゅういちめんだいし)を見事に彫(ほ)り上げた。更(さら)に14日間で大悲(だいひ)の像を彫ったのち、いつの間にか童子の姿は消えてしまった。この童子は長谷(はせ)観音の化身(けしん)という。
かくして政朝は寛平(かんぴょう)2年(890)、総持寺(そうじじ(7))を建立したのである。
『わがまち茨木−民話・伝説編』(茨木市教育委員会
1984)
に所収、補訂
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