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街道に出没する追剥ぎ

【戸伏村】

一、戸伏河原の藪だたみ

 茨木郷の材木町(1)から東に分れた街道は、集落の外れで北に分れ高槻街道となり、戸伏村をすぎ安威川の千歳橋を渡ると、長い戸伏河原の藪だたみ(2)の中に入る。川の両岸は竹藪と雑木林が茂り、昼でも人が立ち入らない密林であった。街道の両側は竹が頭上に伸びており、小さな空が覗いていた。
 街道は昼でも通行人が途絶えがちで、夜は稀に急用の旅人が通るくらいであったから、旅人の懐の重さに目をつけた追剥ぎが しばしば出没し、「身ぐるみ置いてゆけ」と威していた。もし役人らしい者が来ようものなら、すぐ察知して深い薮の中にすばやく逃げ込んでしまうのである。

 この藪だたみで、時おり近在の若者が試胆会(3)をした。闇夜、若者は戸伏側に集まり、一人ずつ戸伏河原を通り北に抜け、庄の村に集合するのである。日暮れ前に世話人が仕掛けをする。街道の両側の竹の幹に 一ヵ所 縄を張り、縄から紐を吊り下げ、ちょうど人の顔が当る高さに コンニャクを幾つも ぶら下げておく。おそるおそる通っていく若者の顔に「ペチャ」と当るような仕掛けである。ただでさえ真っ暗な薄気味悪い道である。何かあるな、と思っていても驚く。気の小さい者などが「ギャー」などと叫んで思わず駈出すと、竹の根もとから路上に張り渡した別の縄に足を取られて転ぶことになる。そこに、恐ろしげに仮装した世話人が 横の藪から ぞろりと出てくる…。いろいろの仕掛けがなされた。

 時代は移り変わった。千歳橋の下手には昭和年代の初めに新京阪電車(4)の鉄橋が架かり、いつしか竹藪も すっかり切り開かれ、川は改修されて幅も数倍広くなり、昔の面影は なくなってしまった。

 

二、奈良びろの松林

 茨木川高橋の道路元標(5)から南に延びる大阪街道。下中条を通り奈良を過ぎると、浅川の橋までの両側一帯に樹齢何百年の松が生え茂っていた。ここが「奈良びろ」という難所である。昼は人馬が よく通るが、夜になると ほとんど通行がなくなり、稀に急用の人が通るのを鴨にしようと 松林に追剥ぎが潜むのである。松林の長さは百数十メートルもあり、附近には人家が一軒もなかった。今では中央環状線が通り、開発されている。

 

三、投げ出し墓の兄弟

 奈良びろを西にとると宇野辺に至る。ここで北より来た亀岡街道と合流し、南に下ると坪井(茨木市から摂津市に編入)の小さな峠にかかる。東側は台地で、墓地がある。西側は田圃に なっている。台地と道の斜面には榎等の丸木が生い茂り、枝が街道の上空を覆っている。

 昔、近在に住む兄弟が 闇夜に この峠に出没し、まれに通る旅人を襲った。
 兄弟は、峠の道をはさんで向い合って腰をおろし、両足を投げ出す。せまい道は二人の足で塞がれるのである。ある日、夜も更けた頃、急ぎ足で北より峠に近づいてくる一人の旅人があった。空には月がなく、星明かりが疎林をかすかに照らしている。兄弟は、近づく人が強そうでなく しかも懐が重そうだと 品定めをして、狸寝入りをしていた。旅人は投げ出した足に気がつき、「ごめんよ」と跨ぎ通りすぎようとした。一寸、草鞋の端が投げ出した足に触れた。兄弟はサッと立ち上がり、旅人の行く手に立ちふさって「オイちょっと待て」。とまどう旅人に、「てめえは人を土足に掛けておいて、挨拶なしで行くのかッ」。旅人が「どうもすみません」といいながら通りすぎようとするのをすかさず弟が胸ぐらを締めあげる。旅人が驚きあわてて懐中の財布から一握りの金を渡すと、弟は手を放した。兄弟は去りゆく旅人をながめながら「ニタリ」と互いに顔を見合わした。そして、またも街道に投足して次の鴨を待つのであった。兄弟は、通行人が強そうだったり、地元の人や多勢の人である場合には、足を引っ込めて煙草を吸い、いかにも一服しているように見せかけた。
 この兄弟は しばらく追剥ぎを続けていたが、いつしか村に居られなくなったようで、どこかへ姿を消してしまった。この場所は大坂街道・投出足墓の追剥ぎといって語りつがれた。

 

『わがまち茨木−民話・伝説編』(茨木市教育委員会 1984)
に所収、補訂

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  1. 材木町:現在の本町。

  2. 藪だたみ:竹藪の茂ったところ。

  3. 試胆会:肝試しの会。

  4. 新京阪電車:現在の阪急電鉄京都線。

  5. 道路元標:路線の起点・終点または経過地を表示する標識。

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