【茨木町】
昔(2)、摂津の国 水尾村(3)のある農家に、男の子が生まれた。生まれながらにして
歯が
はえ揃っており、生まれてすぐにヨチヨチと歩き出した。眼光鋭く後を向いて、母の顔を見てニタッと笑った。
母の胎内に十六ヵ月いたため、たいへんな難産であったことと、鬼子の恐ろしさのため、母はショックで亡くなってしまった。あとに残った父は
さっそく童子を背に、もらい乳をするため赤子のある家をさがし村中を廻った。だが童子の飲みっぷりは
すさまじく、乳房に吸いつくと忽ちお乳が上ってしまう。童子のうわさはすぐに村中に広まり、みんな薄気味悪くなって誰も相手にしなくなった。家も貧しかったので、ある夜
父は童子を篭に入れ、縄をかけて背負い、茨木村の九頭神の森(4)近くにある髪結床屋(5)の前に捨ててしまった。(6)
翌朝早く床屋の親方が表に出ると、大きな赤子が篭の中でグウグウ寝ているので、これは自分らに子がないため神から授かったものだと思い、拾いあげて育てた。
五、六歳ともなれば大人もしのぐ体格となり、近所のがき大将となったが、床屋夫婦は童子をほとほともてあました。そこで床屋の仕事を教え込むことにした。三年ばかりは事なく過ぎた。ある日、童子が剃刀で客の額を剃っていたとき、誤って手をすべらし客を傷つけてしまった。あわてた童子は、吹き出した客の血を指で取り、ペロリとなめた。一度血の味を知った童子は、その後わざと客に傷をつけてはなめるようになった。うす気味悪がった客は、この床屋に誰も来なくなり、店は寂れてしまった。
ある夜、床屋の親方は童子を自分の部屋に呼び、店が寂れたのはお前のためだと厳しく小言をいった。
翌朝、童子は顔を洗うため近くを流れる小川に行き、昨夜は親方にひどく叱られたことを思いうかべつつ土橋の上からしげしげと川面を見ると、水鏡に映った自分の顔は
なんと鬼の相を呈していた。童子は驚き、そのまま店には戻らず
丹波の山奥に入ってしまった。
その橋は以来、茨木童子貌見橋(7)と名づけられ、後の世まで語りつがれた。
丹波の山奥に入った童子は、大江山(8)に住む山賊の頭・酒呑童子(9)のもとに行き、茨木童子と名乗って副将格になった(10)。童子は手下を従えて近くの村や町、または夜の都に出没して金銀財宝を盗み、人を殺し、女を攫った。女で役に立つ者は召し使いにし、劣った者は喰い殺した。
都や地方の役人は、童子らの神出鬼没と怪力に手がつけられなかった。人々は童子らを鬼と呼んで恐れ、都は日暮れともなれば戸を閉じ、街は百鬼夜行のかたちとなった。
源頼光(11)は時の帝の命をうけ、渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武の四天王や平井保昌、その他五十余人の勢を率いて大江山の鬼退治に出発した。頼光たちは山伏姿に身を変えて、鎧兜や太刀を笈に入れて背負い、京の都を出て山陰道を下る。大江山近く二瀬川(12)沿いに山を登って行くと、川辺に一人の若い女がシクシク泣きながら、血だらけの衣服を洗濯していた。女は頼光たちをみると「おおありがたい。あなたは噂に聞いた頼光様でございましょう。わたしが鬼ヶ城(13)にご案内いたしますから、なにとぞ早く鬼めを退治して下さい」と言う。頼光は四天王ら十人をつれ、残りを物陰に忍ばせる。女の案内で鬼ヶ城の城門に向かうと、黒鬼と赤鬼が門番をしていた。女が「この方たちは山路に迷ってお困りの様子でした。お気の毒に思い、しばらくお休みなさるように、ここまでお連れしたのです」と言う。門番は、まさか頼光主従とは気がつかず、これはよい獲物がきたと思って「ウンそれはよい事をした。とにかく奥へ案内して大将に申しあげるがよい」と通す。頼光主従は難なく鬼ヶ城の洞窟に入った。洞窟のなかを窺うと、財宝で飾られていて、それは眼をみはるばかりであった。(14)
酒呑童子は、ほんとうの山伏が来たと思って一行をもてなし、酒や肴を出した。鬼どもの酔いが廻り始めた頃をみて頼光らは笈の中から鬼殺しの強い酒(15)を出し、童子らにすすめた。この酒は飲むと神通力を失ってしまうという強力なものである。やがてすっかり酔った鬼どもは、よろめきながら奥の寝所に入る。しばらくして奥から、雷のような高鼾が聞こえてきた。頃は良しと
頼光主従が奥を窺うと、いままで人の姿と見えていたのが、恐ろしい鬼神の正体を現わして眠っている。味方の伏勢に合図して、頼光主従は奥へ斬り込んだ。
激しい闘いが続いた。頼光は酒呑童子と、渡辺網は茨木童子と切り結ぶ。坂田金時らは、それぞれの鬼と切り結ぶ。やがて洒呑童子は頼光に組みついてねじ倒し、一口に喰わんとするのを、頼光は下から刀を突き上げて二、三度刺し通す。酒呑童子がひるむところを見てヤッとばかりにその首を打ち落とした。これを見た茨木童子は、とてもかなわぬと思って綱を払いのけ、洞窟の外にとび出してどこかへ逃げ去ってしまった。ほかの大勢の鬼どもは、ほとんど退治されてしまうのである。頼光は攫われてきた三十余人の女たちを助け出し、酒呑童子の首をもって都に引きあげた(16)。
頼光は五月雨の降る夜、綱、金時、貞光、季武、保昌らと酒宴を催した。何か珍しい話はないかと尋ねると、保昌が近頃、街の噂では、九条の羅城門に夜ともなれば鬼が出るという。日が暮れると誰も恐れて通らないそうだという。綱はこれを聞きとがめ、「羅城門は都の南門である。そんなところに鬼が出るはずがない」と言った。保昌は「これは世人もよく知っていることである。不審に思われるなら、今夜にでも行って郡かめられたらどうか」と言い返した。こうなれば豪の者の綱としては後へは引けない。さっそ鎧兜に身を固め、重代の太刀をはいて、従者も連れずに唯一騎、羅城門に向かった。京の町は鬼の出没に脅えて大戸を閉め、通行の人影もない。夜は更けて雨はひどく羅城門に近づくと突然ゴーッと一陣の烈風が吹き抜けた。馬は物の怪におびえたか、一声高く嘶き、身振いして棹立ちになる。やむなく馬を乗り放して門に進み寄り、石段を上がると、たずさえてきた証拠の高札を取り出して段上に立て、しばらく様子を窺う。
突然後ろより兜の錣をつかむ者がある。すわや鬼神推参なりと太刀を引抜き、兜の緒を引きちぎって石段をとび降りる。茨木童子は手に残った兜を投げ捨てて綱を睨んだ。その物凄さは
たとえようがなく、両眼はランランとして日月のようであった。綱は少しも恐れず、太刀をふるって切りつける。
格闘が続き、やがて童子が組みつこうと両手を拡げて飛びかかる。綱は一瞬隙ありと太刀を横に払えば、童子の片手がどさりと切り落とされた。童子はすかさず脇築地に飛び上がる。なおも追わんとすれば、俄かに黒雲が童子を覆い、綱は遂に童子を見失ってしまった。綱は、切り落とした松の木のような腕を我が館に持ち帰った。(異説あり)
綱が鬼神の腕を切り取ったという事は、都中の評判になった。陰陽師は、七日のうちに鬼は必ず腕を取り返しにくるという。そこで綱は腕を唐櫃の中に納め、門を閉じて舘に籠り、仁王経の読経を続けていた。
満願の七日日の夜、門戸をホトホト敲く音がする。綱が今夜は訳あって誰にも会えぬと言うと、婦人の声で「妾はお前の叔母の真柴である。久方ぶり摂津の国よりお前の顔を見たくて訪ねてきた」と言う。綱は、たとえ叔母でも今夜は満願の夜だから、あす出直してほしいと断った。叔母は「何という薄情なことをいうのか。お前は幼い時、夏の暑い日は扇の風で凌がせた。厳冬の寒い夜は衾を重ねて暖めた。あれ程
可愛がって育ててやったのに」と涙声。立ち去る気配もない。
情に脆い綱は、門戸を開けて叔母を招じ入れる。叔母は「近頃お前は鬼の腕を打ち取ったとかで、世間では大変な噂じゃ。妾は年寄り。冥土の土産に鬼の腕とやらを見せておくれ」と強いて綱に望んだ。綱はやむなく唐櫃から腕を取り出し手渡すと、その腕をしげしげと見つめていた叔母は、たちまち変化の本性を現し、いつしか物凄い悪鬼の形相となった。綱は大いに驚きながらも太刀を抜き、ハッシとばかりに切りかかる。が、鬼面恐しい茨木童子は、一陣の烈風を巻き起し、屋根を突き破って何処かへ飛び去ってしまった。
童子の生家の父は年をとっていた。我が子の悪い噂を聞くにつけ、辛い思いの日々を送っていた。そして心労が重なり、重い病に倒れてしまった。
ある夜、老父が寝ていると、童子がいくらかの金銀を持ってふらりと帰ってきた。老父が
わけを聞くと「わしは神通力を持っている。遠く離れていても親父が病に倒れたのが判るので、見舞いに来たのだ」と言う。老父は涙を流しながら、「世間を騒がせ、人様に迷惑をかけるような者は子でもない。夜の明けぬうちに早く立ち去れ」と金銀を突き返した。童子は
やむなく姿を消し、その後ふたたび生家に戻ってくることはなかったという。
『わがまち茨木−民話・伝説編』(茨木市教育委員会
1984)
に一部所収、補訂
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【注釈】
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