<山中湖>
馬に乗り常陸の湯へ出立す

 

 馬に揺られて、一路、常陸の湯を目指す日蓮とその一行は、身延出山から五日目の九月十三日、河口から暮地へ出た。六キロの行程である。
 次の日は、暮地から竹之下へ三十キロの強行軍であった。
 行程が一日ごとに違っているのは、日蓮の体を気遣う日興の配慮によるものだろうか。あるいは、訪れた地の信徒達が、日蓮の指導を熱心に求めたために、出立が遅れたということもあったに違いない。
 思えば、日蓮の一生は、激闘の日々の連続であった。立宗宣言の日から三十年間、二度の流罪、月々の難、加えて身延の悪い環境のなかで、日蓮の体には次第に病悩が生じていたのである。御書には「衰病(おとろえやまい)」(新版p1506全p1105)「下痢(くだりはら)」(新版p1603全p1179)「やせやまい」(新版p1498全p1583)等と記されている。
 身延出山の前年、弘安四年五月、池上宗仲、宗長兄弟に送った書状には、今年はどうにか過ごせても、あと一、二年、どうして生きられようかと言っている。日蓮は入滅の時を、ひそかに悟っていたのであろう。
 暮地から竹之下へ出る途中、山中湖畔を通過する。
 本栖湖、精進湖、西湖、河口湖、そして山中湖と、西から東へ続く富士五湖のなかで、山中湖は最も高いところにあり、面積も広い。湖面に映ずる富士の姿は五湖中、第一といえるであろう。
 往時から七百有余年、今、湖上は水に遊ぶ人々でにぎわっていた。

 

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