<御殿場>
鎌倉を去り、身延に向かう

 

 文永十一年(1274)三月二十六日、日蓮は鎌倉に帰還した。
 四月八日、執権・北条時宗の内意を受けた平左衛門尉は、日蓮を丁重に幕府に迎える。居並ぶ幕府高官を前に、日蓮は、立正安国の法理に基づいて、三度目の諫暁をなしたのである。
 幕府の要人達は、日蓮に、念仏や真言、禅などについて質問する。日蓮は経文を引き、諸宗、諸経の無得道を説いて、法華経のみが成仏の教えであることを教えた。
 平左衛門尉は、最大の関心事である蒙古来襲の時期を問う。日蓮は「今年は一定なり」(新版p1241全p921)と断言している。そして、真言師に蒙古調伏の祈祷を命ずるようなことがあれば、必ず日本は敗れること。真に日本を助けようと思うならば、直ちに諸宗の謗法を断ち、正法に帰依すべき旨等を厳しく申し渡したのである。
 しかし、幕府は、日蓮の真心からの諫暁を用いなかった。のみならず、幕府の西御門近くに寺院を建て、帰依しようと言ってきた。日蓮を懐柔する策に出たのである。
 日蓮は、この申し出をきっぱりと断る。
 四月十日、幕府は阿弥陀堂の別当であった加賀法印に祈雨を命じ、日蓮の言葉に逆らう行為に出た。
 「三度いさめんに御用いなくば山林に・まじわるべき」(新版p1250全p928)……日蓮はついに鎌倉を去ることを決意する。
 御殿場は、甲州(山梨県)波木井郷にある身延山への途次にあり、後年、富士登山口の一つとして開けた所である。

 

次のページ
(車返し)


目次 前のページ(小諸)