<中山峠>
佐渡へ苦難の配流旅

 

 竜の口で大難を打ち破った日蓮は、九月十三日の夜明けとともに依智(神奈川県厚木市)の本間重連邸に向かう。
 その夜、鎌倉から早馬で使者が到着。書状には、日蓮に危害を加えてはならない旨が記されていた。同夜、庭の梅の木に明星が下る奇瑞があったという。
 依智での逗留は、二十余日の長きにわたった。幕府内で日蓮の処遇をめぐって意見が分かれ、結論が出なかったからである。しかし、大勢は日蓮赦免の方向に向かっていた。
 そこで、この動向を見守っていた極楽寺良観や念仏者など、日蓮とその門下を憎悪する面々は、残忍な奸計を実行に移す。それは、鎌倉市中に放火し、あるいは人を殺して、その罪を日蓮門下になすりつけるというものであった。
 幕府の態度が硬化し、世論は一変する。
 日蓮の弟子・信徒に対する苛烈な弾圧の嵐が吹きすさび、所領の没収、主家からの追放、勘当、罰金などの処置が、信徒を襲う。退転者が続出し、日蓮の門下は、まさに潰滅の危機に瀕したのであった。
 結局、幕府は日蓮を佐渡流罪と決定。出立は初冬の十月十日(陰暦)であった。
 依智から町田、府中、国分寺をへて、鎌倉街道を高崎へ向かう。
 中山峠は群馬県高山村にある三国街道の要所である。
 峠から振り返ると、榛名山の左手、遥か後方に続く関東山地の上に、富士が頭を出していた。

 

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